勿忘草の咲く汀で | 家と記憶を抱く、蟹座の肖像

CANCER | Bloom Tenderly | 勿忘草(Myosotis palustris)

蟹座の星図 – John Bevis(1750年)
Public domain, via Wikimedia Commons

プロローグ:海から、ひとつの岸へ

はじめに、海がありました。

まだ私たちが誰でもなかったころ。名前も、輪郭も、ひとりという感覚さえなかったころ。私たちは温かい水のなかに、すべてと溶け合って抱かれていました。寒さも、渇きも、ひとりぼっちも、まだ知らないまま。

やがて私たちは、そこから押し出されます。たったひとつの身体のなかに、ひとりきりで。選んだ覚えのない名前、選んだ覚えのない家、選んだ覚えのない時代。気がついたときには、もうここに置かれていて、なぜ自分がここなのかと問いかけても、世界は答えを返してくれません。

生まれるとは、あの大きな温もりから切り離されることでした。そして蟹座は、その切り離しの寒さを、12星座のなかで最初に思い知る星座です。すぐ前を歩く双子座が、言葉で世界をきれいに切り分け、自分と他人は別々なのだと知性で理解したあと、蟹座はその「別々である」という事実を、胸の奥で、ひとつの切実な寂しさとして感じ始めるのです。

けれど蟹座は、その寂しさを抱えたまま、動き出します。失われた温もりを、いま立っているこの岸辺に、もう一度こしらえようとするのです。

蟹が背負うあの硬い甲羅は、そのために在ります。守られなければ生きていけないほど柔らかく、傷つきやすい身体を、それでも壊さずに抱えて運ぶための、覚悟の形です。変えられない前提をその背に負ったまま、柔らかなものを胸に抱いて、蟹は海と陸の境目を歩いていく。嘆くことをやめ、与えられたその場所に、帰れる家をこしらえる。それが、蟹座という星座のいちばん深い願いです。

夏至に生まれ、月を抱き、内なる家へ還る星座

蟹座が、太陽の通り道のちょうど4番目、一年でもっとも昼が長くなる「夏至」から始まるのは、偶然ではない気がします。北へ北へと昇りつめた太陽が、もうこれ以上は行けないという果てで、来た道をくるりと折り返し、ふたたび我が家へ帰り始める、その反転の一点。

地上で太陽が真上にくる北の限界線が「北回帰線」、英語で Tropic of Cancer、蟹座の回帰線と呼ばれるのも、夏至の太陽が古代には蟹座の領域にあったことに由来します。昇りつめた果てで、内へと還っていく。蟹座は、その「帰郷」というしるしを、太陽の歩みそのものに刻まれて生まれてきた星座なのです。

蟹座の支配星(その星座の性質を形づくる星)は、夜空で満ち欠けを繰り返す「月」です。太陽が「私はこうありたい」という意志の光だとすれば、月は「なぜか、こうしてしまう」という、もっと奥の、無意識に近い光。誰かの世話を焼くこと、傷つきやすいものを守ること。それは蟹座にとって、教わるより先に湧き上がってくる本能です。月が潮を満ち引きさせるように、蟹座は感情の細かな揺らぎに敏感です。同じ部屋にいる人の心の機微、誰かが言わずに飲み込んだ涙。それを、頭で考える前に肌で察してしまう。蟹座が世界を受け取るときに使う器官は、研ぎ澄まされた「感情」と「記憶」なのです。

たとえば、何ヶ月も前にあなたが何気なくこぼした「あの紅茶が好き」を覚えていて、ある日それを差し出してくれる人。声がほんの少し曇っただけで、何も訊かずに温かいお茶を淹れ、隣に座ってくれる人。古い家の縁側に差し込んでいた夏の光や、畳に染みついた雨上がりの匂い、亡き祖母の手料理のやさしい味を、昨日のことのように語る人。インクの色褪せた手紙を、引き出しの奥にいまも大切に仕舞っている人。そういう人を、あなたはきっと、ひとりは知っているはずです。その人は、胸の奥に、あの海をまだ抱いているのかもしれません。

そして蟹座には、もうひとつの顔があります。占星術では、季節を新しく始める推進力を持つ星座を「活動宮」と呼びますが、蟹座はそのひとつです。受け止めることを本領としながら、守るべきものを見つけた瞬間には、自分の意志で素早く動き出す。自分の殻を開く相手は時間をかけて見定めるのに、守るべき弱いものを前にしたときだけは、その慎重さが消えます。蟹座とは、いわば「動く水」です。

蟹座の星図 – Alexander Jamieson(1822年)
Public domain, via Wikimedia Commons

蟹座のシンボルは、文字どおり海の「蟹」です。硬い甲羅と、驚くほど柔らかく傷つきやすい身体を、一枚の皮膚の裏表のように併せ持つ生き物。社会の荒波のなかでは甲羅を固く閉じ、本音を簡単には見せません。けれど一歩我が家に入り、心から信頼できる人の前に出たとき、その殻を脱いで、もっとも瑞々しい素顔をひらきます。だからこそ蟹座は、人を殻の内側に招き入れるまでに、慎重に時間をかけます。自分の壊れやすさを誰より知っているから、無防備な顔を見せる相手を、注意深く見定める。

けれど、ひとたび「この人」と決めた相手には、生涯枯れることのない、深く濃い愛情を注ぎ続けます。蟹座がいつまでも過去を、特別な誰かを思い続けるとすれば、それは、その人を甲羅の奥、生命のいちばん柔らかいところに、永遠に迎え入れたからです。

蟹座の影と祈り

この溢れるほどの情愛は、ときに影も連れてきます。繋がりを求める気持ちや、忘れられることへの恐れが強くなりすぎると、抱きしめる腕が、相手を放さない腕に変わってしまうことがあります。慈しむことと、抱え込むこと。それは同じひとつの愛の、表と裏です。

外の世界が牙を剥くとき、蟹座は甲羅をいっそう固く閉ざし、身内にすら本音を語らなくなります。けれど、その頑なな沈黙の奥にあるのは、いつもひとつの願いです。

「私を、ひとりにしないで」

ギリシャ神話で蟹座になった大蟹カルキノスは、英雄ヘラクレスがヒュドラと死闘を繰り広げるさなかに現れた、小さな刺客でした。女神ヘラがヘラクレスを阻むために放った蟹です。

巨躯の相手に勝てる道理などないのに、踏み潰されるのを承知で、その足にハサミを突き立てた。勝ち目は、万にひとつもない。それでも退かなかったその姿を、ヘラはその働きに報い、空へ上げて星座にしたと伝えられています。勝ち目のない戦いに、それでも身を投げ出す必死さ。蟹座が抱きしめるのは、立場や勝敗を超えた懸命さです。

守るために振るうこの「蟹の爪」と対をなすのが、「母の腕」です。ギリシャ神話で母性そのものを象徴する、大いなる母デメテル。我が子を慈しみ、守りぬくその姿は、月に守られた蟹座の母性の元型そのものです。

一見正反対のこのふたつは、どちらも、愛というひとつの幹から伸びた尊い枝として、蟹座のなかに矛盾なく同居しています。

勿忘草の咲く汀(みぎわ)

この星座をひとつの花にたとえるなら、私は迷わず勿忘草(わすれなぐさ)を捧げます。

勿忘草 – Pierre-Joseph Redouté(1759-1840 )
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英名は forget-me-not。水辺や湿った土の片隅に、膝にも届かないほどの控えめな背丈で、指先より小さな、澄んだ青い花を咲かせる野草です。なぜこの花が蟹座の魂を象徴するのか、そこには三つの美しいかさなりがあります。

第一に、その名が抱く祈りそのものが、蟹座の核心だからです。

「私を、忘れないで」

これは、蟹座が世界に差し出している、もっとも静かな願いです。蟹座にとって、忘れ去られることは、肉体的な喪失よりもはるかに哀しい。過ぎ去った日々、いまは会えない人、もう二度と聴けない声。それらを胸の奥に灯し続け、決して風化させないこと。時のなかに埋もれていく記憶を、ただ抱きしめ、守り続けること。それが、蟹座が世界に対して果たす役割です。

第二に、その咲く場所です。

勿忘草は、湿った陰地や水辺を好んで根を張ります。蟹座のもっとも柔らかな本質も、同じ場所で開きます。

黄道をはさんで蟹座の真向かいには、山羊座が座っています。社会という冷たく険しい山を、頂上めざして登りつめていく、地のエレメントの星座です。その対極に立つ蟹座が向かうのは、深みです。どれほど社会的に成功した人であっても、その真の花は、一歩退いた私的な場所、我が家という静かな湿地で、信頼する人の前でだけ、開かれる。

山羊座が外の世界に築く「頂」と、蟹座が内に守る「湿地」は、一本の軸の両端で、互いを必要としています。帰る場所、守るべきホームを深く持っている人だけが、安心して高く登っていけるのですから。

第三に、その咲き方に宿る美学です。

大輪の薔薇は、豊かな香りとその華やかさで、誰かれかまわず人を呼び寄せます。勿忘草は、うつむきがちに群れて咲く小さな五弁の花の中心に、足を止めて覗き込んだ人にだけ見える、小さな黄色い環を灯しています。

蟹座の愛し方は、これとよく似ています。言葉という手軽な道具で飾られた表面的な甘さを、蟹座は本能的に信用していません。安易なやさしさに惑わされて近づいてくる人は、いつか甲羅の内側の柔らかさを、無防備に踏みにじって去ってしまうかもしれない。理解されないまま傷つくことへの、一段深い恐れが蟹座にはあります。

だから蟹座が紡ぐのは、日常の細部に宿る「配慮」です。その核にあるのは、いつも同じこと。相手が気を張らずに「ここにいていい」と思える、居場所をつくることです。

相手がこぼした願いを、忘れずにいること。血の繋がりがなくても、出会って間もなくても、ひとたび「守る」と決めれば、その人のための席をこしらえること。蟹座にとって、誰かを愛することと、その人の帰れる場所になることは、ほとんど同じ意味です。

蟹座は口先で愛を囁く代わりに、その配慮に相手が気づくかどうかを、注意深く見つめています。花の中心の黄色い環に、覗き込んだ人だけが気づくように。

この花のキャッチコピーは「Bloom Tenderly(やわらかく、咲く)」。英語の tenderly には、やさしさに加えて、傷つきやすさや愛おしさ、それらを壊れ物のように扱う慎重な慈しみが含まれています。誰も見ていない湿った場所で、ただ大切な人のためにやわらかく咲き続けること。それが、蟹座が勿忘草とともに世界に届ける愛の姿です。

二本の映画に、蟹座の肖像を観る

(ここから先は、二本の映画の結末に触れていきます。まだご覧になっていない作品がありましたら、映画を観たあとにお読みいただけたら嬉しく思います。)

『ラ・ラ・ランド』| 愛したものを、わが家の器に灯し続ける人

まず挙げたいのは、デイミアン・チャゼル監督『ラ・ラ・ランド』のセバスチャン(セブ)です。

セブは、ロサンゼルスに住む、売れないピアニストです。彼が愛しているのは、いまの時代にはあまり聴かれなくなった、古いジャズ。世間が忘れていくものほど、手放さずに守っていたい。そんな想いを持った彼が、女優を夢見るミアと出会い、恋に落ちます。

夢を追う二人の道は、少しずつ擦れ違っていきます。セブは、安定した暮らしのために本意ではないバンドの仕事を選び、ツアーに明け暮れ、ミアの大切な一人芝居の初日にも、駆けつけられませんでした。彼のやさしさが、すれ違いを生んでしまった夜もありました。

それでも、彼女が一人芝居の失敗に打ちのめされ、すべてを諦めて実家へ逃げ帰ってしまったとき、セブは大きなオーディションの報せを握りしめて、彼女のもとへ車を走らせます。どうして実家の場所がわかったの、と驚くミアに、彼は通りの先の図書館を指差すだけ。「子供の頃、図書館の向かいに住んでいた」という、出会ったばかりの頃にミアが何気なくこぼした一言を、セブはずっと覚えていたのです。相手のささやかな言葉を、いつか駆けつけるべき日のために覚えている。蟹座の深い愛は、この沈黙の記憶力に宿ります。そして夢を諦めようとするミアに対し、彼はいつものやさしさを脱ぎ捨て、強い語気でオーディションへ行けと迫ります。

心から信じて殻の内側に入れた相手が、自分の夢を手放そうとした瞬間、蟹座は本人以上にその可能性を守ろうとして、鋭い爪を立てます。ミアが世界へ羽ばたけたのは、あのときセブが振るった、蟹の爪があったからです。

二人はやがて、それぞれの夢に導かれて、別々の道を歩いていきます。

そして5年後。大スターになったミアが、別の人と家庭を築いたある夜、偶然ひとつのジャズ・クラブに足を踏み入れます。ネオンの看板に灯っていたのは「Seb’s」の文字。まだ何者でもなかった彼のためにミアが描いて贈った店の名前を、ロゴごと一文字も変えずに、セブは自分のホームに掲げ続けていました。

叶えた夢の形にまで、蟹座的なものが滲んでいます。彼が手にしたのは、小さなお店ひとつ。世界から忘れられていく古いジャズと、もう戻らない人との思い出を、その同じ器のなかに一緒に漬け込んでいくような。

蟹座にとって店とは、器であり、家であり、柔らかな身を包む殻。ほかの星のもとに生まれていたら、彼はミアを取り戻そうと世界へ打って出たかもしれません。セブが選んだのは、彼女との時間も、愛したジャズも、我が家の奥に記憶として漬け込み、守り抜くことでした。年月を経るほど深く澄んでいく、年代ものの梅酒のように。そしてあの店は、ミアがいつか帰ってこられる居場所だったのかもしれません。まだ何者でもなかったころの自分を、思い出せる場所として。

その店で5年ぶりにミアと視線が絡んだ瞬間、もし別の選択をしていたらという美しい幻想が、音楽とともに流れます。あの長い夢は、セブのなかで過ぎた日々がいまも色褪せずに生きていることの、何よりの証拠です。記憶の星座である蟹座が、過ぎた日を愛おしまずにいられるはずがありません。けれど幻想から醒めたセブは、店を出ていくミアと最後に視線を交わし、静かに頷いてみせます。満ちては引く感情の潮をそのまま胸に抱えたまま、彼が選んだのは、ミアを送り出すことでした。その幸福を願う気持ちは、ずっと彼の中で変わらないのでしょう。

愛する人を引き止める腕を手放して。代わりに抱え続けたのは、愛した日々の記憶。手に入らなかった愛さえ記憶ごと自分の殻のなかで生かし、相手の旅路を見送る。あの小さな頷きに、蟹座の愛と祝福のすべてが宿っていたように私は感じます。それはきっと、蟹座が辿りつく、もっとも成熟した愛の姿。

『海街diary』| 傷ついた影を抱き、悲しみを消化する家

もう一人、蟹座の魂の成熟を描いている肖像として、是枝裕和監督『海街diary』の長女、香田幸を挙げたいと思います。

鎌倉の古い一軒家に、三人の姉妹が暮らしています。15年前、父は別の女性のもとへ去り、母もまた傷心のまま家を出て、残された妹たちを、長女の幸が母親代わりとなって育ててきました。物語は、その父の訃報から始まります。

葬儀の地で、姉妹は初めて、父が再婚相手との間にもうけた異母妹、すずに出会います。中学生のすずは、誰よりもかいがいしく父を看取りながら、義理の母の家で、感情を押し殺して生きている。その姿を見つめていた幸は、帰りの駅のホームで、発車の間際に、こう言います。

「すずちゃん、鎌倉に来ない? 一緒に暮らさない? 4人で」

このひと言には、蟹座という星座の核心が、ほとんどすべて詰まっています。

すずは、幸たちから父親を奪った女性の娘です。本来であれば、憎悪や嫌悪の対象となってもおかしくない存在です。しかし、駅のホームですずを見つめたとき、幸の目に映っていたのは、大人の事情を一身に引き受けて、子供らしく泣くことも甘えることもできずにいる、ひとりの少女でした。

それは、父が去り、母が去った古い家で、妹たちを育てるために自らの「幼少期」を殺さざるを得なかった、かつての幸自身の姿そのものでした。「もっと遊びたい」「無責任な大人が許せない」という強い怒りや寂しさを心の奥底に押し込め、子供らしく生きる時間を奪われてきた幸は、すずの中に、自分自身の姿を見たのです。

心理学では、私たちが抑圧し、見ないようにしてきた内なる一面を「影(シャドウ)」と呼びます。なかでも、傷ついたまま心の奥に置き去りにされた幼い日の自分は、「内なる子供(インナーチャイルド)」と呼ばれます。影はふだん、他者の姿を借りて現れ、理由のわからない嫌悪や反発を引き起こします。けれどまれに、その出会いが、深い慈しみを呼び覚ますことがあります。幸がとった行動は、すずのなかに現れた、もうひとりの自分を、自らの甲羅の内側へと招き入れることでした。

先ほど、蟹座は「動く水」だと述べました。守るべきものを見つけた瞬間の、あの迷いのなさ。人を殻の内側へ招き入れることに誰よりも慎重なはずの星座が、いざというときには、会ったその日に家族の境界線を開いてみせる。あの即断こそ、自ら流れを生み出す活動宮の本能的な在り方です。

すずという傷ついた存在に向き合い、彼女に居場所を与えることは、幸にとって、かつて置き去りにされた自分自身の子供時代を、過去に遡って癒し、傷ついた内なる子供を抱きしめていくような時間でもありました。

外側に投影された傷ついた影を、温かな巣のなかに抱きかかえ、愛することによって、自分自身をも救っていく。すずを育む歳月を経て、幸はあれほど憎んでいた母親の「弱さ」をも包み込み、赦すことができるようになります。与えることと受け取ること、癒すことと癒されることが、ひとつの円環をなして溶け合う。これが、魂が成熟に至る「蟹座の仕事」です。

幸の、家族という境界線への厳密さが、こんな場面にも滲みます。彼女には妻のある医師の恋人がいました。あるとき、雑貨屋でいい箸を見つけたのに買わなかった彼女に、恋人が「買ってきてくれればよかったのに」と笑います。しかし幸はこう返します。

「お箸を買うって、いろいろ気になるもんですよ」

箸は、その家での自分の居場所を示す象徴のようなものです。道ならぬ関係のただなかにいて、相手の箸を買うということを、幸はしませんでした。蟹座が守り抜くのは、いつでも、まやかしのない「本物の繋がり」だからです。

占星術の身体対応において、蟹座が「乳房」と「胃」を司ることは象徴的です。乳房は他者へ無条件の栄養を与える器官であり、胃はそれを受け取って自らの血肉へと「消化」する器官です。

この映画において、死者や去った人々の記憶は、すべて食事のレシピという形で姉妹たちに手渡され、消化されていきます。

父の記憶は、「しらすトースト」の中に。去った母の記憶は、「シーフードカレー」の中に。姉妹を見守り続けた食堂のおばさんの記憶は、サクサクとした「アジフライ」の中に。そして、亡き祖母の記憶は、懐かしい「ちくわカレー」と、庭の木に成る実を毎年漬ける、代々受け継ぐ「梅酒」の中に。

思えば、セブが「Seb’s」の看板の下でしていたことも、同じでした。去った人の記憶を、自分の家のなかで梅酒のように漬け込み、時を超えて生かし続けること。蟹座の愛は、こうして保存の形をとります。

失われた人の手料理をもう一度こしらえ、口に運び、噛みしめて、自らの血肉に変えていく。蟹座にとって食べることは、一度は失った安心感を、いまこの身に取り戻す儀式なのです。

悲しみや喪失という、そのままでは大きすぎて飲み込めない苦い感情を、彼女たちは食卓を囲み、ともに美味しく味わうことで、生きる力へと変えていく。蟹座の癒しは、三度の食事をともにし、同じ季節の営みを繰り返すという「暮らしの反復」のなかで、達成されていくのです。

そしてこの物語の深さは、幸を完成された聖母として描かないところにあります。

守る力は、ときに行きすぎて妹たちへの小言になり、家を捨てた母への、15年分の硬い爪になっている。祖母の法事で再会した母が、思い出の詰まったこの家を売ることを口にしたとき、幸の爪は、本来守りたかったはずの母を、深く突き刺してしまいます。

けれど別れの日、幸は、祖母が遺した梅酒を、残らず母に持たせました。長年憎み、母の役目を捨てて家を出た相手にです。思えば父の葬式もそうでした。行かないと言いながら、結局、夜勤明けの体で駆けつけている。憎んでいるはずの相手に、どうしても背を向けきれないのです。

蟹座にとって、自分から絆を断つことは、相手を「切り離す」こと。生まれた瞬間に最初に味わい、何より恐れてきたその痛みだけは、自分を捨てた母にさえ、与えることができません。手放せないという蟹座の性は、抱え込みの影にもなれば、誰も切り捨てない強さにもなります。その光と影をまるごと引き受けたことが、幸の成熟なのだと思います。

終盤、幸はふたつの選択をします。海外へ発つ恋人についていかず、この家に残ること。そして看護師として、治る見込みのない人々を看取る緩和ケア病棟へ、自ら移ること。

蟹座が生まれたときから抱えている、あの「切り離される」という痛み。人の死は、それがもっとも剥き出しになる瞬間です。なぜこの人が、なぜ今なのかと、どれだけ問いかけても、世界はただ、沈黙を返すだけです。頭では、どうしても答えがでない。引き止めることも、覆すこともできない。

幸が選んだのは、その答えのない場所に、自分から立つことでした。去っていく人のいちばん近くで、できる限りの看護を、食事の心配りを、温もりを尽くす。変えられないと知りながら、それでも自分にできることを、ひとつずつ手渡していく。逃れられない別れを前にして、なお誰かのために動けること。それこそが、幸の中に在る蟹座の真骨頂のように思います。

去っていく人の最期の傍らに立ち、その時間を記憶として引き受ける仕事。家を守ることと、死にゆく人を見送ること。一見かけ離れたこのふたつは、幸のなかで矛盾なく繋がっています。どちらも、失われていくものを「忘れない」というかたちで抱きとめる営みだからです。

そしてすずもまた、この家で、長い呪いから解かれていきます。自分の存在そのものが、誰かの家庭を壊した証である、という呪い。「私がいるだけで、誰かが不幸になる」と感情を飲み込み続けてきた少女が、毎朝の食卓へ、梅仕事へ、柱に刻まれる成長の証へと、この家の暮らしに一本の糸のように編み込まれていくうちに、ようやく「ここにいていい」という存在の許可を受け取っていく。

この家で癒されていったのは、姉たちも同じでした。すずと暮らした歳月の果てに、あれほど恨んでいた父を、少しずつ赦していきます。家族を捨てた人。けれど、こんなにいい妹を残してくれた人。お父さんは、いい人だったのかもしれない。すずの存在そのものが、父が遺した最後の贈り物として、姉妹たちの古い傷を癒していく。母を赦し、父を赦し、互いの存在を祝福し合う。この家の食卓のうえで、与えることと受け取ることの円環が、いくつも重なって閉じていくのです。

魚は深い海の中に生き、自他の境界を失って、大いなる全体へと融けていきます(魚座の融解)。蠍は、光の届かない海の底で、たったひとりの相手と命がけで結ばれ、ひとつになろうとします(蠍座の深淵)。同じ水でも、魚は全体へ、蠍はただひとりへ、どちらも自分を手放して「溶け合う」ことで、失われた一体感へ還ろうとする星座です。

しかし、蟹は違います。蟹は、海と陸の境界、「汀」に生きる生き物です。

蟹がいちばん恋しがっているのは、あの海の温もり。けれど蟹は、溶けて還ろうとはしません。海にあった愛を、陸へ運び上げるのです。個としての輪郭を保ったまま、あの温もりを、この岸にもう一度こしらえること。それが、蟹が還る「家」です。蟹は、誰の輪郭も溶かしません。それぞれが自分のままでいられる温かい器をつくり、そこへ人を迎え入れる。家族を守るために、殻を持つ。蟹にとって愛とは、別々のままで、同じ食卓を囲むこと。

背後にどれほど深い海が広がっていても、彼女たちは畳を拭き、ご飯を炊き、洗濯物を干し、梅の実をもぐ。失われた楽園を、この地上に、もう一度こしらえるために。それが、汀に立つ者の仕事です。

映画のラストシーン、葬儀を終えた四姉妹が、海を背景に波打ち際を歩きます。このシーンには、蟹座という星座の自画像が重なって見えます。彼女たちは海を背負い、潮風に吹かれながら、これからも陸の上の暮らしを、一歩一歩、確かに生きていくのです。

Bloom Tenderly

満ちては引く未練を抱えたまま、ミアの幸福を願い、その背中を見送ったセバスチャン。自分の家庭を壊した人の娘を、その傷ごと迎え入れ、育てることで自らも癒えていった幸。ふたりが立っているのは、同じ場所です。海と陸とが出会う汀。それは、勿忘草が根を下ろす、あの湿った水辺でもあります。

私たちは皆、すべてと溶け合っていたあの愛の海から引き剥がされ、ひとりの個として、この乾いた岸に生まれてきました。だから誰もが、心のどこかで、還れる場所を探しています。蟹座が宇宙から託されているのは、その「真の家」を、この地上にこしらえることです。それが、十二星座のなかで蟹座だけに与えられた役目です。

「私を忘れないで」と願いながら、何よりもまず、自分が相手を決して忘れないことを魂の奥で誓う。その愛は、報いを求めません。月が、誰に気づかれずとも夜ごと潮を引き寄せているように、蟹座の愛は、世界の片隅の湿った土で、今日もやわらかく咲いています。

蟹座が居場所をいつまでも空けておいてくれるから。
交わした約束を、私が忘れたあとまで覚えていてくれるから。
そして、私がくじけそうなときでさえ、私以上に、私の可能性を信じてくれているから。

だから私たちは、どれだけ遠くへ迷っても、自分を信じて待っていてくれる場所へ、何度でも還っていけるのです。

「Bloom Tenderly」 やわらかく咲く。

それは、どれだけ傷ついても、心を硬くせずにいること。失った数だけ鎧を着込みたくなるこの世界で、それでも心をひらいたまま、咲き続けることです。

そして、それがいちばん勇気のいる強さなのだと思います。蟹座の強さは、水の強さ。譲り、包み、温めながら、最後まで折れない。古い言葉が「水は譲ることによって征服する」と言うように、やわらかさのまま、何より倒れにくい強さを持つ。

硬い甲羅が在るのは、その内側のやわらかさを、最後まで生かすためです。蟹座が守り抜きたいのは、いつだって、最も傷つきやすいものなのですから。

私の天頂である蟹座に、敬愛を込めて

私自身の話を、最後に少しだけさせてください。

私の出生図において、天頂、すなわち今生で魂が最終的に目指すべき在り方を意味する MC(Medium Coeli)は、蟹座に位置しています。

天頂とは、ホロスコープのなかでもっとも高く、空のてっぺんにあたる点です。本来そこは、社会での達成や、世間に示す顔を司る場所であり、ふだんは山羊座(肩書き、社会的責任)と結びつけて語られます。

けれど私の場合、その頂に座っているのは、蟹座でした。天頂のちょうど真下には、天底(IC)、家とルーツを司る点があります。そこが本来、蟹座の住処です。その家の星が、私の場合は社会の頂点に昇っていた。私の人生の頂は、「社会という公の場であっても、家のような温かさを差し出すこと」にあるのかもしれない。占星術における天頂は、人生の紆余曲折を経て、最後に「ここへ至りたい」と憧れ、体現しようとする究極の指標です。私にとって蟹座の在り方は、ひとつの星座の性質を超えて、心から憧れる魂の行き先そのものなのです。

振り返れば、私が蟹座の魂を持つ人たちにいちばん心を動かされてきたのは、その「行動力」でした。

蟹座は活動宮、自ら流れを生み出す「動く水」です。仲間と繋がり、手を取り合い、自分たちのビジョンへ向かって、迷いなく動いていく。そしてそのビジョンはいつも、蟹座らしいものでした。守られるべき弱い立場の人に、手を差し伸べること。誰かの居場所を作ること。損得の計算が始まるより先に、「やってあげなければ」「救わなければ」という純粋な愛によって、今日も誰かに手を差し伸べている。

時には、セブのように愛する人の可能性を守るために、鋭い爪を立てることもあるでしょう。私自身、過去に、蟹座の人から痛いところを突く言葉をもらったことがあります。あの時の私は、素直に受け取ることができていなかったかもしれません。けれど今は、痛いほど分かります。あの時の言動は、本当に私のことを想ってくれていたものだったと。自分が嫌われても、相手をちゃんと育てよう、応援しようという、蟹座の純粋な愛でした。

私自身は、想いはあっても、その想いをエネルギーに変えて、人を巻き込み、現実を動かしていくことが苦手です。だからこそ、人を巻き込み、世界をやさしさで満たそうと尽力する蟹座の姿は、私にとって尊敬そのものです。

天頂に座っている蟹座の背を見つめながら、想いを行動に変えられる人になれるよう、誰かにとっての居場所を作れる自分になれるよう、一歩一歩、成長していきたいと思います。

これまで出会ってきた蟹座の魂を持つ人たちに、私は生涯、焦がれ続けるでしょう。心からの感謝と敬愛を込めて。

最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。

花 | 勿忘草(Myosotis palustris)

キャッチコピー | Bloom Tenderly やわらかく、咲く

映画 | 『ラ・ラ・ランド』(デイミアン・チャゼル監督, 2016)/『海街diary』(是枝裕和監督, 2015、原作:吉田秋生)

参考文献 | ケヴィン・バーク『占星術完全ガイド』(伊泉龍一訳、フォーテュナ)/アリエル・ガットマン、ケネス・ジョンソン『占星術と神々の物語:ホロスコープの中の元型』(伊泉龍一・nico訳)/Stephen Arroyo, Astrology, Psychology and the Four Elements (CSA Press, 1975)

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