カトレアの咲く森で|視えないものを抱く、魚座の肖像

PISCES | Bloom Dreamily | カトレア(Cattleya)

 

魚座の星図。ジョン・ビヴィス、1750年頃。Public domain, via Wikimedia Commons

魚座とは、どんな人なのか

あなたの周囲に、このような人はいないでしょうか。

映画館の暗闇で、登場人物が静かに息を引き取る場面になると、身近な誰かを失ったかのように、声を立てずに泣いている人。言葉を交わす前に、相手が飲み込んだ気持ちを、なぜか正確に当ててしまう人。地球の裏側で起こった、まったく知らない人の悲劇を、その日一日、自分のことのように引きずってしまう人。ふとした瞬間に頭のなかに立ち上がるイメージや風景が、現実の景色にうっすらと重なって、その日の世界の色まで変えてしまう人。

その人は、もしかしたら「魚座」の魂を持つ人かもしれません。

12星座とは、それぞれの星座が「世界を感知するために、特別に研ぎ澄まされた感覚器官」を持っているようなものです。同じ夕焼けを見ても、人は別々の窓を通してそれを受け取っています。

そのなかで魚座が、世界を感知するときに用いている器官は、「魂」と「内なるイメージ」です。

頭よりも、五感よりも、心の表層よりも、もっと奥にある、もうひとつの感覚器官。私たちが通常「無意識」「霊性」「直感」と呼ぶ領域。魚座の魂を強く持つ人は、その領域を日常の感覚として使いながら生きています。

言い換えると、魚座が生きているのは、三次元と多次元のあわいです。目に見える物質の世界と、目に見えない霊的な世界の、ちょうどそのふたつの境界に、いつも意識があります。両方の世界のあいだに、片足ずつを置いて生きている。だから魚座には、ほかの人には届かない領域の気配が、日常のなかでひっそりと視えているのです。

12番目の星座、終わりと始まりが同居する場所

魚座は、黄道(こうどう、太陽の通り道)の12番目に位置する、最後の星座です。

長い長い物語の終着点。つまり魚座は、ほかの11の星座のすべてを通過してきたあとの段階を生きています。牡羊座で初めて生まれた個の意志、牡牛座で覚えた身体の喜び、双子座で開かれた言葉、蟹座で出会った感情、獅子座で輝いた自己表現、乙女座で身につけた献身、天秤座で結んだ他者との関係、蠍座で経験した深い変容、射手座で広げた精神の地平、山羊座で築いた社会の塔、水瓶座で繋いだ集団との連帯。

これらをすべて潜り抜けた魂が、最後に到達するのが魚座です。

そして同時に、魚座は新しい周期の入口でもあります。完全なる終わりと、まったく新しい始まりが、ひとつの星座のなかに同居している。これが、魚座という星座の、ほかにはない不思議な位置です。

魚座のなかで、人はようやくひとつのことを思い出します。

わたしは、はじめから世界のすべてとつながっていた。あの人も、この人も、わたしも、星も、雨も、見知らぬ国の悲しみも、もう亡くなった人の魂も、すべて同じひとつの大きな水のなかにいる。「分かれている」と思っていたのは、長い長い幻にすぎなかった、と知る場所。それが、魚座という星座が魂に開く扉です。

二匹の魚、高次の自分と、低次の自分

魚座のシンボルは、一本の紐で結ばれた、二匹の魚です。

ひとつは大きな魚。海の深いところを静かに泳ぐ、すべてを見通すような知恵を持った魚。もうひとつは小さな魚。群れをなして、本能のままに泳ぐ、目先のものに反応してしまう魚。

そしてこの二匹は、それぞれ反対の方向を向いています。

これは、魚座を生きる人が、いつも内側に同時に抱えているふたりの自分の姿です。霊性に開かれた、宇宙のほうを向こうとする自分と、まだ揺れている、目の前の波に反応してしまう自分。魚座は、このふたりを、ひとつの肉体のなかで同時に生きています。

魚座という星座の生涯のテーマは、この二匹の魚のあいだに張られた紐を、切らずに、けれど絡まらせずに保ち続けることにあるのだと思います。

境界が曖昧な星座

魚座のもっとも大きな特徴は、「自分」と「他人」の境界が、不思議なほど薄いことです。

ほかの星座の人は、「これは私の感情」「これはあの人の感情」と、ある程度まではっきり区別することができます。けれど魚座の魂を強く持つ人は、その区別がうまくつけられません。

誰かが悲しんでいると、いつのまにか自分も悲しくなっている。誰かが緊張していると、自分の体まで強張ってくる。映画を観れば、登場人物の人生に意識が入り込んでしまって、観終わったあともしばらく、その世界からこちら側に戻ってこられない。

この境界の薄さは、魚座にふたつのものを与えました。

ひとつは、ほかの誰にもできない形で、人を理解する力です。

言葉で説明されなくても、相手の魂の中で起きていることが、もう、すでに自分の中にあるのです。痛みも、喜びも、迷いも、自分のことのように内側で感じられる。芸術家、書き手、ヒーラー、カウンセラー、看護師、聖職者。誰かの内側にある、まだ言葉になっていない部分を扱う仕事に魚座が深く向いているのは、このためです。

もうひとつは、自分が「自分」のままでいることの、難しさです。

周りの感情に流される。他人の期待に寄ってしまう。相手のために自分を消してしまう。気がつくと、自分が何を感じているのか、自分の本当の意志はどこにあったのか、分からなくなっている。そしてはっと我に返って、本来の自分に戻ってくる。けれどまた、別の誰かの感情の中に引き込まれて、その人の期待する形に、自分を合わせてしまう。

他人の期待する自分になっては、本来の自分に戻り。なっては、戻り。

これは、魚座のギフトと表裏一体の、生涯にわたる呼吸のようなものです。

視えないものを、視える形にして届ける人

魚座のもっとも大切な役割を、ひとつの言葉でまとめるとしたら、私はこう書きます。

魚座は、目には映らない領域に手を伸ばし、それを誰もが触れられる形に変えて、世界に手渡す人たちです。

形のないもの。証明できないもの。亡くなった人の魂や、まだ生まれてこない命の気配や、誰かが言葉にする前に飲み込んだ想いや、家族のあいだに流れている見えない絆や、何百年も前にこの世を去った画家がキャンバスに残した手の温度。地のサインや風のサインの人にとっては、なかなか「実在するもの」として捉えにくい領域です。

けれど魚座の魂を強く持つ人は、これらを「目の前にある物」と同じくらい確かに視ていて、感じています。だからこそ、絵を描く、音楽を奏でる、文章を書く、人を癒す、祈る、という行為を通して、その視えないものを、視える形に翻訳し、顕現させることができるのです。

それを裏づけるように、魚座を支配するのは、伝統的な占星術では木星、現代の占星術では海王星です。木星は、信じることの星。「人生には意味がある」「魂は存在する」「愛は永遠だ」。証明できないけれど、信じることでしか触れられない真実を、人に開きます。海王星は、夢と霧と神秘の星。境界をぼかし、夢と現実を行き来させ、目に見えない領域への回路をひらきます。このふたつの星に治められる魚座は、「信じること」と「夢を見ること」を、生命の中心に据えて生きています。

魚座の人がときどき「何のためにこの仕事をやっているのだろう」と分からなくなるとしたら、それは、自分は視えないものを扱う仕事をしているのだ、という自覚にまだ出会っていないからかもしれません。社会の評価基準は、視えるものしか測れません。けれど魚座が世界に贈っているのは、いつでも視えないものなのです。

魚座の影、殉教者の元型と、逃避の傾向

すべての星座には、影の側面があります。

魚座は、他者の苦しみを自分のことのように引き受けてしまえる星座なので、ときに「苦しむことが愛の形だ」と勘違いしてしまうことがあります。本当は、霊性に奉仕するために自分を犠牲にする必要はないのに、魚座の自我の中には、「殉教者」という古い物語の型(元型)が住みついているのです。誰かのために自分を消し、無意識のうちに「これが私の役目だ」と納得してしまう。

もうひとつの影は、痛みからの逃避です。

境界線が薄く、感受性が鋭い魚座は、ときに世界の感情を吸い込みすぎて疲れてしまい、防衛本能から、現実そのものを薄くしてしまうことがあります。空想に逃げたり、物語に没入したり、お酒や、もっと強いものに頼ろうとする。誰とも会いたくなくなり、引きこもりたくなる。そうしないと、世界の感情の重さに耐えられない瞬間が、本当にあるからです。

これらは、魚座が普段から背負っているものの大きさの、裏返しです。ただ、ここに長く留まってしまうと、魚座は自分が本来できる仕事から、少しずつ遠ざかってしまいます。

魚座が学んでいく道筋

魚座にとって、大切な学びはふたつあります。繊細すぎる感覚から逃げないこと。そして、内側に抱えたものを、この世界に手渡していくこと。

未熟な魚座は、視えているものを「自分が変なのかもしれない」と疑い、社会の物差しに合わせて自分を縮めてしまいます。成熟した魚座は、誰にも理解されなくとも、視えているものを引き受け、自分の感覚を信じて立ちます。

このふたつの学びが、実際の人生のなかでどんな顔をしているのか。それはこの記事の後半、二人の登場人物の物語のなかで、ゆっくりとお見せしたいと思います。

もし魚座が花であるならば、私はカトレアを選びます

カトレア・ラビアタ(Cattleya labiata)
ジョン・リンドリー『Collectanea botanica』(1821年)より
Public domain, via Wikimedia Commons

カトレアとは、熱帯の森の中に咲く、ランの一種です。学名は Cattleya。深く澄んだ紫の花びらと、内側で艶やかに張り出した唇のような花弁、その奥で密やかに光る金色の蕊。「ランの女王」とも呼ばれる、まるで夢の中から抜け出してきたような姿をした花です。

なぜ、この花が魚座の魂を象徴するのか。そこには、四つの美しいかさなりがあります。

第一に、カトレアが纏う「色」です。

深く澄んだ紫。古来、紫という色は、霊性と神秘の色とされてきました。物質の世界の手前で、見えない領域へと通じる入口を示す色。司教の祭服や、皇族の装束に紫が選ばれてきたのは、この色がこの世とあの世のあいだを示す色だからです。

魚座が住まう感覚の領域は、まさにこの色をしています。視える現実と、視えない霊的な世界の、ちょうど境界線のあたり。魚座は、この紫色の領域を、本質的な住処にしている星座です。

第二に、カトレアが「育つ場所」です。

カトレアは、土に根を張りません。熱帯の森の中で、他の木の幹や枝にふんわりと寄りかかるようにして生きる、「着生植物」という形で生命を繋いでいます。根はあるけれど、地面に縛られていない。これは、魚座の生き方そのものを映しています。

魚座の魂を強く持つ人は、この世界に確かに存在しているけれど、「完全に地に根を張っている」という感覚を持ちません。どこか、地と空のあいだに浮かんでいる。夢と現実のあわいに住んでいる。だからこそ、ほかの誰にも視えないものを、見つけることができるのです。

第三に、カトレアの「咲き方」です。

薔薇は咲き誇り、ヒマワリは朗らかに笑います。カトレアは、森の奥の、誰に観られるとも分からない場所で、ただ自分の内側にある夢の形を、そのまま空気の中に開いていきます。

「Bloom Dreamily」、夢のように咲く。

このキャッチコピーは、カトレアの咲き方そのものを言い当てています。咲いている、というよりも、夢が、花の形をして顕現している。

魚座が世界に対して見せている顔も、これによく似ています。内側にあった目に見えないものが、ある日、外に向かって溢れる。そのとき、そこに魚座という人の姿が立ち上がってくるのです。

第四に、カトレアの「特性」です。

カトレアは、水を与えすぎても、光が足りなくても機嫌を損ねる、環境の影響を受けやすい花です。けれど、ひとたび花を咲かせると、その花は数週間にわたって、枯れずに咲き続けます。揺らぎやすさの奥に、揺るがないものを持っている。

魚座を生きる人も、その繊細さと揺るがなさを両立しています。気分の波が大きく、周りの感情にすぐに揺らがされる、繊細で壊れやすい人に見えるかもしれません。けれど、ひとたび自分の真ん中にあるものを世界に差し出した魚座は、その姿勢を、何年でも、何十年でも崩しません。表層は揺らぎ続けるけれど、深いところには、揺るがない核がある。これが、魚座という人の特性です。

夢のように咲く。

夢は、現実よりも淡いものだと、多くの人は思っています。けれど魚座にとっては、夢こそが真実の姿で、私たちが現実だと信じ込んでいるもののほうが、ぶ厚い夢にすぎないのかもしれません。

魚座が視ているものは、この世界のスクリーンの向こう側にある、もうひとつの世界。

魚座が世界に届けているのは、その「もうひとつの世界」を信じていてもよい、というささやかな赦しなのです。

カトレア・ラビアタ(Cattleya labiata Lindl.)
図版:L・A・L・コンスタン、1851年
Public domain, via Wikimedia Commons

映画の登場人物として、私はこの二人を挙げたいと思います

(ここから先は、二本の映画の物語の結末に触れていきます。まだご覧になっていない作品がありましたら、映画を観たあとに読んでいただけたら、嬉しく思います。)

阿形順正、境界を超えて、魂と魂を結び直す人

一人目は、辻仁成と江國香織の同名小説を原作とする映画『冷静と情熱のあいだ』の、阿形順正です。

順正には、まさに「これは魚座の魂そのものだ」と感じさせるセリフがあります。

「亡くなった画家の魂に寄り添って一体化する感覚で」
「自分の魂も浄化されるような、すごく神聖な気持ちになれるんだ」

順正は、イタリアのフィレンツェで絵画の修復を学ぶ、若い日本人の青年です。15世紀の壁画や祭壇画、何百年も前の画家が描いた色と線を、現代に蘇らせる仕事をしています。

彼の仕事の本質は、すでに亡くなった画家の魂の中に自分を一度溶かしこみ、その人がもう一度筆をとったとしたら、ここをどう触れただろうかと、画家の手の内側から、その人の筆を動かすことにあります。自分と他者の境界が溶けていなければ決してできない、まさに魚座の仕事です。

そして、順正の恋もまた、徹底的に魚座的です。

学生時代、東京で深く愛しあった、あおいという女性。喧嘩で別れて、もう何年も会っていません。あおいはミラノで新たな恋人と暮らし、順正はフィレンツェで、他の女性と関係を持ちながら過ごしています。それなのに二人は、時空を超えて、ずっと同じ一本の糸で結ばれているように感じています。

連絡も取らず、会いにも行かず、ただ、誰にも見えない場所で、二人の魂は繋がっている。そして時が満ちたとき、フィレンツェのドゥオモで再会するという約束を、10年近く心の奥で握りしめている。

魚座のシンボルである二匹の魚は、一本の紐で結ばれて、それぞれ反対の方向を向いていました。順正とあおいの恋は、まさにこの形をしています。

魚座にとっての愛は、境界の溶解そのもののなかで、相手と自分の魂が分かちがたく繋がっている、という感覚です。時間も、空間も、関係ない。それが、魚座の愛の形です。

時空を超えて画家の魂と一体化していく仕事の仕方と、時空を超えてあおいと魂で繋がっている恋の仕方。順正のなかで、ふたつはまったく同じ構造をしています。肉体の輪郭を超えて、別の魂とつながることができる。それが、魚座だけに許された異能です。

小林大悟、視えないものを、視える形にして手渡す人

二人目は、滝田洋二郎監督の映画『おくりびと』の小林大悟です。

大悟は、東京でオーケストラのチェロ奏者として生きていました。1800万円のチェロのローンを抱え、いつかこの楽器に見合う演奏家になるのだと信じて。けれどある日、オーケストラは解散してしまい、彼はその高価なチェロを手放して、妻と一緒に、生まれ故郷の山形に帰ります。

この映画に描かれているのは、未熟な魚座から、成熟した魚座への、長い変容の物語です。

東京での大悟は、「プロはこのくらいのチェロを使うものだ」という他人の声に沿って、自分の人生を組み立てていました。1800万円という金額は、社会が「これくらいが立派だ」と決めた金額です。大悟はその物差しを、自分の魂の願いだと思い込んでいました。

魚座は、霊性がまだ目醒めていない時期に、こうして「他人の基準で生きる」ことを試みてしまう傾向があります。本来、自分の感覚を信頼すればいいだけなのに、その感覚を疑い、社会の声を借りてきて、自分の人生に当てはめようとするのです。

チェロを売って借金を返したあと、大悟は心の中で、「軽くなった」とつぶやきます。魚座が「他人の基準」をひとつ脱いだ瞬間です。彼自身もまだ、何が起きているか分かっていない。けれど、身体と、その奥にある声だけが、先に正解を知っているのです。

山形に帰った大悟は、新聞の求人欄で「旅のお手伝い」と書かれた仕事を見つけ、面接に向かいます。それが、納棺師という仕事でした。

社長は、面接室に入ってきた大悟にほとんど何も尋ねないまま、「採用」と告げます。魚座的な魂を持つ者同士が、ひと目で見抜き合った瞬間です。視える人には、視えてしまう。この人は、こちら側の人間だ、と。

納棺という仕事を、社会の多くの人は「穢らわしい」「怖い」と感じます。大悟自身も最初は戸惑い、妻に仕事の中身を打ち明けることができません。妻に知られたとき、彼女は「触らないで」「穢らわしい」と言って、実家に帰ってしまいます。

ここでひとつ、知っておきたいことがあります。魚座は人一倍、その場の感情を吸い込んでしまう星座です。悲しみや痛みの強い場所での居心地は、本当のところ、良くないはずです。当然、喜びにあふれた場所のほうが嬉しい。

ただ、魚座がどんな場所でも視ているのは、表面に立ち上がっている感情の、さらに奥のほうです。そこに静かに流れている愛や絆、積み重ねてきた時間、まだ言葉になっていない想い。喜びの場でも、悲しみの場でも、魚座はその奥にある人と人との繋がりを、まっすぐに視ています。

だから、亡くなった方のお身体に向き合うとき、魚座に視えているのは、その人の人生のすべて、そして魂です。魂は、人が死んでも無くなりません。家族の愛、果たせなかった願い、許されたかった想い、抱きしめられたかった幼い日の自分。物質の肉体は止まっているけれど、その奥に流れている物語のほうが、魚座にはずっと濃く視えているのです。

大悟がどんなにこの仕事を貶され、「辞めて」と言われても続けていたのは、生前どれほど喧嘩をしていた親子や夫婦でも、最期にはやはり相手を愛していたのだ、ということを、毎回、目の前で確認することができたからです。

彼が視ていたのは、「死」ではなく、「愛」でした。

そしてそれは、大悟自身が、ずっと強く求めていながら、向き合うことから逃げ続けていたものでもありました。

幼い大悟は、父が突然、家を出て姿を消したあと、母の前で一度も涙を見せませんでした。泣いて母を困らせることもなく、何事もなかったかのように健気にふるまい続けたのです。自分の悲しみよりも、最愛の夫に裏切られ、絶望の淵にいる母の苦しみのほうが、誰よりも先に、痛いほど視えてしまっていたからです。

これは一見、やさしさのように映ります。けれど、ここに魚座の最初の試練があります。

繊細すぎるからこそ、悲しみと真正面から向き合うことが、恐ろしい。胸を押しつぶされそうな感情を抱えきれず、感情そのものを押し殺してしまう。理性で生きようと、社会的な物差しにしがみつき、見栄えのよい形を整えながら、その内側で少しずつ感覚を鈍化させていく。気づくと、自分が本当は何を求めていたのか、何に泣きたかったのかさえ、分からなくなっていく。

これが、未熟な魚座のあり方です。

母が亡くなったときも、大悟はその最期に立ち会いませんでした。父のことを長く恨み続けてきた。けれど本当は、父に会いたかった。母にも会いたかった。向き合うことが怖くて、勇気が出ないまま、時が流れていった。東京で1800万円のチェロを背負って「立派なプロ」を演じようとしたことも、すべてこの同じ流れの上にあります。幼き日の悲しみや孤独に真正面から向き合えば壊れてしまうと感じていたから、社会的な役割や物質的な装備に逃げ込んでいたのです。

魚座が魂の成熟へと歩み出すために必要なことは、ただひとつ。胸を押しつぶされそうな悲しみの真ん中に、それでも踏みとどまり、そのなかに確かにある愛を、自分の手で見出していくことです。逃げずに、麻痺させずに、向き合うこと。本物の慈愛は、痛みの中にとどまり続けた人のなかに生まれます。

納棺の現場で目にする家族たちの愛に、大悟は、自分自身の凍てついた家族の愛を、密かに重ねていたのだと思います。

大悟は、納棺の所作をひとつずつ覚えていきながら、愛や魂をここに存在するものとして大切に扱い、視えないものを、視える形にする技を身につけていきます。

亡くなった方の頬を拭く動作。髪を整える指。衣をまとわせる手つき。それらは、ご遺族にこう語りかけています。

「あなたのお父様が、生きていらした事実は、確かにここにありました」
「お母様があなたを愛していらしたことを、私はこの方のお身体から、いま受け取りました」
「この方の愛と魂は、たとえ肉体が無くなろうと、失われることはありません」

これが、魚座が世界に対してできる、いちばん大きな仕事です。

そしてこの仕事を続けていくなかで、もうひとつ、大悟の内側でひっそりと開花していくものがあります。

1800万円のチェロを手放した大悟が、実家で見つけ、取り出したのは、子どもの頃にずっと使っていた、小さくボロボロの古いチェロでした。月光川の河原で、残雪の鳥海山を背にしてそのチェロを弾く彼の音は、東京でテクニックに頼っていた音とは、もう、まったく別のものでした。魂から、ただ静かに流れ出る音。技術では到底辿り着けない、魂の領域からしか生まれない音です。

魚座にとって、霊性と芸術は、同じ根源を持っています。納棺の現場で他者の魂と愛に触れ続けるなかで、大悟の魂は少しずつ目醒め、内なる幼い傷ついた自分を癒し、純粋に両親を喜ばせたくてチェロを弾いていたあの頃の自分と、溶け合っていきます。霊性が開かれ、芸術が開く。芸術が開かれ、霊性がさらに深まる。魚座の真骨頂が、ここにあります。

物語の終盤、幼い頃に自分と母を捨てて家を出ていった父が、遠い地で一人寂しく亡くなった、という訃報が届きます。港町の寂れた小屋で、大悟は何十年ぶりかに、冷たくなった父と対面します。葬儀社の手で物のように扱われようとする父の身体を遮って、「私がやります」と告げ、静かに遺体の前に座ります。

父の硬く握りしめられた手をそっと開いたとき、手のひらから、小さな、丸いひとつの石が転がり落ちました。まだ大悟が幼かった頃、父と交わした「石文(いしぶみ)」の石。言葉の代わりに、自分の気持ちを石の形や質感に託して贈り合った、あの日の石です。父は、何十年ものあいだ、その小さな石を、手が動かなくなる最期の瞬間まで、ずっと握りしめ続けていたのです。

その瞬間、言葉を超えて、父の変わらぬ愛が大悟の魂へと流れ込み、積年の恨みは涙とともに洗い流されました。母の前でさえ決して泣けなかったあの少年は、ようやく、自分自身のために涙を流すことができたのです。彼は、大いなる赦しとともに、父の身体を自らの手で、美しい所作をもって納棺します。

映画のラストシーン、大悟は、妻のお腹に宿るまだ見ぬ我が子に向かって、父から受け取ったあの石文をそっと押し当てます。視えない愛を、石という見える形にして、次の世代へ、未来へと手渡していく。これ以上ないほど美しく完結した、魚座の魂の帰還の物語です。

Bloom Dreamily

順正と、大悟。

二人は、まったく違う仕事をしているように見えて、本当は同じことをしています。

視えなくなったものを、もう一度、視える形にして、この世界に届ける。視えないものを真ん中に抱えながら、それでも三次元に足をつけ、物質の領域に霊的なものを通わせる導管になる。それが、魚座が宇宙から託されている、いちばん大切な役目です。

魚座のやさしさは、静かです。深い熱帯の森のなかで、誰に観られるとも分からない場所で、ただ紫の花を開くカトレアのように、世界の片隅で、形のないものに息を吹き込み続けます。

私たちはみな、流れていく時間の中で、たくさんのものを失い、忘れていきます。

亡くなった人の声。
もう会えない人への愛。
言葉にならなかった想い。
抱きしめられたかったあの時。

視えなくなってしまったから、まるで無いことのようになっていく。けれど、世界に魚座という存在がいるからこそ、それらは「無かったこと」にはなりません。

魚座には、ちゃんと視えています。ちゃんと覚えています。そしてあるとき、その魂と一体化して、絵や、音や、文章や、所作として、再び世界へと甦らせていくのです。

Bloom Dreamily 夢のように咲く。

夢とは、まだ言葉になっていない真実のことです。魚座が咲かせている花は、まだ言葉になっていない愛そのものです。

誰にも見えていないかもしれない。けれどそれは、確かに存在していて、確かに咲いている。

それこそが、魚座がこの世界へ密かに差し出している、夢のように美しい「愛」。

二匹の魚を、どう生きるか

最後に、私自身のことを、少しだけお話しさせてください。

私のホロスコープにおいて、太陽・月・水星は、すべて魚座にあります。だから、ここまで書いてきたことは、別の誰かのことであると同時に、私自身が長く見続けてきた世界そのものでもあります。

私はブライダルの仕事を通じて、新郎新婦やご家族の愛と絆に触れ、新郎新婦を愛する、もう亡くなった方の魂に触れ続けていました。当時は、すべての人が等しく、その感覚に触れているのだと信じていました。どうやらそうではないらしいと気づいたのは、もっと後のことです。

幼い頃から、大人を見ると、その言葉や表情の奥にある本心が視えてしまい、なんでこの人は嘘をつくんだろうと不思議に思うこともありました。これも、誰もが見ている光景なのだと信じていました。

そうではないと気づいたとき、私は怖くなりました。本来は人が感じないものを、人一倍感じてしまう。だから、感情を押し殺さなければ。そう常に緊張しながら生きていた時期があります。

小学生の頃から、辛いことがあっても母の前では感情を押し殺し、何事もなかったかのように振る舞いました。私に何かがあれば、母がいちばん悲しむことを、子供ながらに感じていたからです。

大悟と、同じです。

蓄積した影(シャドウ)に気づいていなかったときの私は、外側の基準に自分を沿わせるために必死になりました。でも、魚座の価値基準は、本質的に内側にあります。自分の内なる価値基準を軸に据えることができたとき、やっと私は本当の自分に出会えた気がしました。

そして理解したのです。水のエレメントを持たない人たちは、異なる器官で世界を理解し、生きている。見ている景色が、全く違うのだと。長いあいだ握りしめていた孤独が、ふっと、ほどけた瞬間でした。

意図せずとも他者と溶けてしまう魚座にとって、自分の中にある確かなものと、他者の中にある確かなものは、いつも同じ部屋に同居しているようなもの。他者の心へ寄りすぎたら、はっと気づいて自分の心へ戻ってくる。他者の期待へ寄りすぎたら、はっと気づいて自分を大切にしようとする。

それを繰り返してしまうこの性格を、私はずっと「弱さ」だと思っていました。でも今は、これこそが魚座の長所なのだと信じています。

他者の魂に深く入り込み、ひとつに溶け合えるからこそ、魚座はいつでも、自分以外の世界を視て、体験することができます。自分の海を広げていくことができる。大切な人の内側から、その人の見ている世界を視て、感じ、理解することができる。だからこそ、差し出せる「愛」や「応援」があるのだと思っています。

自分の戻る場所さえ忘れずにいれば、どんなに他者と溶け合っても、ちゃんと自分に還ってくることができる。

だから、魚座の魂が強い方へ、私が伝えたいことはただひとつ。どうか、自分を信頼してください。たとえ誰一人理解してくれなかったとしても、自分だけは、自分を深く理解し、自分の味方であり続けてください。自分の期待に応え、自分で自分を承認することで、自分の価値を認めてあげてください。

その術を身につけたとき、魚座は、自分へ還る道を知ったまま、広い海をどこまでも自由に泳いでいけます。

そして私は、『Voyage d’Étoiles』というこの場所で、夢のように咲き続けるのです。

最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。

花 | カトレア(Cattleya)

キャッチコピー | Bloom Dreamily 夢のように咲く

映画 | 『冷静と情熱のあいだ』(中江功監督, 2001)/『おくりびと』(滝田洋二郎監督, 2008)

参考文献 | ケヴィン・バーク『占星術完全ガイド』(伊泉龍一訳、フォーテュナ)/Stephen Arroyo, Astrology, Psychology and the Four Elements (CSA Press, 1975)

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