【すべては自分の写し鏡】恐れつくねと魂の光 Part.1

 

こんにちは。Maria Lily Diaryへようこそ。セラピストの沙織です。

 

木々の葉が美しく色づく季節となりました。皆様は、いかがお過ごしでしょうか🍁

 

今日は、なぜ私たちは魂の声を聞けなくなるのか、そして、どうすれば、再びその声を聴けるようになるのかについてお話ししたいと思います。

 

 

あなたは今、どちらの感覚をより強く感じていますか?

 

「理由もなく、心が躍る」

「これをしていると、時を忘れてしまう」

「この人が、この場所が、ただ、好き」

 

そんな、温かく、軽やかな感覚でしょうか。

 

それとも、

 

「これをやらなければ、価値がない」

「こんな自分では、愛されない」

「あの人はいいな…」

 

という、重く、どこか焦りのある感覚でしょうか。

 

軽やかな感覚に従えば、幸せになれると頭ではわかっていても、私たちは社会的な役割の中で、重たい感覚を無視して生きることが難しいものです。

 

魂の声を失うということ

 

先日、Amazon Primeで「夫よ、死んでくれないか」というドラマを観ました。

 

AI generated illustration

  

登場人物たちは皆、世間体や見栄、承認欲求のために、平気で嘘をつき、自分にも他人にも不誠実な行動を繰り返します。

 

主演の安達祐実さんが演じる主人公は、「過去を隠さなければならない」「本当の自分を知られてはいけない」という根深いトラウマから、重たい被害者意識を心に渦巻かせています。

 

そして、鬱積した感情は、もう一人の自分となって鏡の中に現れ、健気に頑張る自分に「嘘つき」と囁くのです。

 

鏡の中の自分には、表情がありません。まるで、魂がすっぽり抜け落ちてしまったかのように。

 

自分の本当の気持ちや感覚を無視し続けた代償に、喜びも、幸せも、愛も、感じられなくなってしまう。

 

魂から完全に切り離され、理性だけで自分を保とうとする生き方は、なんと苦しいことでしょう。

 

このドラマは、極端な形で、一つの普遍的な真実を描きます。

 

私たちは、魂の声を聴くのをやめた時、人生の羅針盤を失うのだ、と。

 

 

魂を覆う「恐れのつくね」

 

では、どうすれば私たちは再び、魂の声を聴くことができるのでしょうか。

 

それにはまず、なぜその声が聞こえなくなるのか、私たちの心の地図を広げ、その仕組みを知ることから始める必要があります。

 

魂の声と理性の声の間には、私たちの行動を支配する巨大な「恐れ」の層が存在します。

 

私は、それが「つくね」のようにこねられて、私たちの魂の周りを覆っているイメージを持っています。

 

なにがこねられているかというと、幼少期の経験、親からの刷り込み、社会の常識、過去のトラウマなど。

 

そういったものが幾重にも重なり合い、こねられて、こねられて、分厚い「恐れの層」を作っているのです。

 

この、私たちの心を縛り、生きづらさを生み出す仕組みを、仏教哲学の「唯識(ゆいしき)」は見事に解き明かしています。

 

唯識が教える「心が世界を創る」という真実

 

唯識(ゆいしき)とは、「ただ、識『心』のみ」という意味です。

 

その核心的な教えは、「私たちが経験するすべての現実は、心が映し出したものである」というもの。

  

外側に「客観的な世界」があるのではなく、私たちの「心」が世界を創造している。

 

だから、同じ出来事を経験しても、人によって全く違う世界が見えるのです。

 

では、私たちの心はどのような構造をしているのでしょうか。

 

心の三層構造【魂、記憶、そして表層意識

 

唯識では、私たちの心を大きく三つの層として捉えます。

 

【最深部】魂の

 

最も奥深くに、あなたの本質である魂の光があります。

 

これは、生まれたばかりの赤ちゃんが放つ、あの純粋な光です。条件も、恐れも、執着も、何もない。

 

ただ「在る」という、完全な愛と安らぎそのもの。

 

魂は、いつもあなたに語りかけています。

 

「これが好き」 

「これが心地よい」

「こうしたい」

 

それは理由のない、ただの「知っている」という感覚。頭で考える前に、体が、心が、すでに知っている感覚です。

 

たとえば、

子供の頃から

絵を描いている時だけは時間を忘れた。

 

音楽に合わせて体を動かすと

なぜか心が躍る。

 

動物や自然に触れると

深く癒される。

 

海を眺めていると

心が静かになる。

 

この場所、この人は、安心する。

 

そんな、理由は説明できないけれど「確かにそうだ」と感じる瞬間。それが、魂からのメッセージです。

 

 

【中間層】記憶の倉庫と「あの時の私」

 

しかし、魂の光の周りを、分厚い層が覆っています。この中間層に、先ほどお話しした「恐れのつくね」が形成されています。

 

この層には二つの働きがあります。

 

1. 阿頼耶識 (あらやしき)

すべての記憶が保管される場所

 

あなたがこの世に生まれてから体験した、すべての経験がここに保管されています。唯識では、これを「種子(しゅうじ)」と呼びます。

 

喜び、悲しみ、怒り、恐れ。褒められたこと、傷つけられたこと。愛されたこと、拒絶されたこと。すべてが「種子」として、この記憶の倉庫に刻まれています。

 

そして重要なのは、この倉庫は善悪を判断しないということです。良い経験も、悪い経験も、平等に保管されます。

 

(唯識や、ブライアン・L・ワイス博士の「前世療法」では、阿頼耶識には過去生の記憶もすべて保管されていると言われています。)

 

2. 末那識(まなしき)

時が止まった「あの時の私」

 

阿頼耶識の記憶の倉庫の中で、特に強烈な傷つきの体験は、強力な種子となります。

 

そして、そこから「あの時の私」が生まれるのです。

 

仲間はずれにされて独りぼっちだった、あの時の私。 

 

親に愛されていないと感じ絶望した、あの時の私。 

 

失敗して恥をかいた、あの時の私。

 

好きな人に拒絶され傷ついた、あの時の私。

 

「あの時の私」は、時が止まったまま、今も、あの瞬間の痛みを永遠に経験し続けています。

 

そして、もう二度と傷つかないために、あなたを必死で守ろうとします。

 

「私はありのままでは愛されない」

「私は価値がない」

「私はできない」 

「私は孤独だ」

 

「あの時の私」が作り出す信念と恐れこそが、魂を覆う「恐れのつくね」の正体であり、エゴが生まれる仕組みです。

 

【表層】日常の意識

 

そして最も表層に、私たちが普段「自分」だと思っている意識があります。

 

見る、聞く、考える、判断する、行動する。五感とともに、この日常の意識は、忙しく動き続けています。

 

しかし、この表層意識は、実は「あの時の私」が作った信念というレンズを通して、世界を見ているのです。

 

 

なぜ私たちは、魂の声を聞けなくなるのか

 

ここに、私たちが魂から切り離される、決定的な錯覚があります。

 

錯覚①「あの時の私」を、本当の「私」だと勘違いする

 

「私は愛されない存在だ」という信念を持つ「あの時の私」。

 

この「あの時の私」は、今を生きていません。過去のある瞬間に留まり、その痛みを永遠に繰り返しているだけです。

 

しかし、私たちはこの「あの時の私」を、本当の「私」だと勘違いしてしまうのです。

 

なぜなら、その声はあまりにも当たり前で、説得力があり、「これこそが真実だ」と囁き続けるからです。

 

錯覚②「あの時の私」が作ったレンズで世界を見る

 

「私は愛されない存在だ」という信念を持った「あの時の私」がいると、その信念はレンズ(フィルター)となって、あなたが見る世界を歪めます。

 

恋人の優しい言葉は、「本心じゃないかもしれない」「誰にでも言っているのでは」という疑い

 

友達から断られたら、「私のこと、本当は嫌いなのかな…」「私と遊びたくないのかな…」という不安

 

自分に対する定義は、「ありのままでは足りない」「自分を他人より優先してはいけない」「何か役に立たなければ価値がない」と、

 

同じ現実を見ているのに、レンズが曇っていれば、歪んだ世界しか見えなくなってしまいます。

 

そして、その曇った視界の中で、あなたは考え、選択し、行動します。

 

嫌われないように、相手の顔色をうかがう。傷つかないように、心を閉ざす。価値がないとバレないように、完璧を演じる。

 

これらの行動は、さらに「やっぱり私は嫌われた」「やっぱり私はダメだった」という新たな種子を記憶の倉庫に植え付けます。

 

そして、同じパターンが延々と繰り返されるのです。

 

錯覚③ 魂の声を「雑音」だと思ってしまう

 

曇ったレンズを通して世界を見続けていると、魂からのメッセージは、だんだん聞こえなくなっていきます。

 

「これが好き」という純粋な声は、「でも、これをやっても価値はない」「変な人だと思われるかもしれない」という恐れの声にかき消されます。

 

「こうしたい」という軽やかな衝動は、「でも、これをしたら嫌われるかもしれない」「もし失敗したら、生きてはいけない」という恐れの声に押しつぶされます。

 

やがて私たちは、恐れの声こそが「本当の自分の声」だと勘違いし、魂の声を「現実的ではない雑音」だと思い込むようになるのです。

 

感情を感じないようにと、押さえ込めば押さえ込むほど、鬱滞したそのエネルギーが心や体を蝕むこともあるでしょう。

 

 

「私」とは誰なのか?

 

ここで、根源的な問いが浮かび上がります。

 

「私」とは、一体誰なのか?

 

過去の傷から生まれた「あの時の私」が、本当の私でしょうか?

 

「もっと痩せて綺麗にならなければ、愛されない」とか、「もっと結果を出さなければ、認めてもらえない」と囁き続ける声が、本当の私でしょうか?

 

違います。

 

本当のあなたは、最も奥深くにある

 

魂の光です。

 

過去の傷から生まれた「私」は、本当のあなたではありません。

 

それは、傷ついた記憶が作り出した幻の私なのです。

 

唯識では、この幻の私に執着することを「我執(がしゅう)」と呼びます。

 

そして、この我執こそが、すべての苦しみの根源だと教えています。

 

では、この心の仕組みが、実際に私たちの現実をどのように創り出しているのでしょうか。

 

そして、どうすれば「あの時の私」から解放され、魂の光へと還ることができるのでしょうか。

 

長くなりましたので、Part.2で具体的にお話ししていきます。

 

Part.2はこちら