
一冊の、古い詩集と出会いました。
テオフィル・ゴーティエ著
『エナメルとカメオ
(Émaux et Camées)』

「芸術のための芸術」を掲げた
19世紀フランスの詩人です。
彼はもともと画家を志していたそうです。
けれど、やがて絵筆をペンに持ち替えた。
画家が色彩で描こうとする美を、
彼は言葉で彫り出そうとしたのです。
エナメル細工のように艶やかに
カメオのように、硬い素材を削り出し
言葉を、まるで宝石のように磨き上げて。

偶然ひらいたページに、
こんな詩の一節が載っていました。
詩のタイトルは、
Le Laurier du Généralife, 1843
〈一部を抜粋〉
Il rougit dans l’azur comme une jeune fille ; Ses fleurs, qui semblent vivre, ont des teintes de chair. On dirait, à le voir sous l’onde qui scintille, Une odalisque nue attendant qu’on l’habille, Cheveux en pleurs, au bord du bassin au flot clair.
Le laurier, je l’aimais d’une amour sans pareille ; Chaque soir, près de lui, j’allais me reposer ; A l’une de ses fleurs, bouche humide et vermeille, Je suspendais ma lèvre, et parfois, ô merveille ! J’ai cru sentir la fleur me rendre mon baiser.
それは青空の中で、
若い娘のように頬を染める
その花は、まるで生きているかのよう
肌の色をしている
きらめく水の下でその姿を見れば
衣を待つ裸のオダリスクのようだ
涙のように垂れた髪で
澄んだ水の池のほとりに
夾竹桃を、私は比類なき愛で愛していた
毎夕、そのそばへ休らいに行った
その花のひとつに
濡れた朱色の唇に
私は自分の唇を寄せた
すると時に、ああ奇跡よ!
花が接吻を返してくれたように感じたのだ
〈Translated by AI〉

花に、恋をする。
ゴーティエは、夾竹桃の花弁に
「濡れた朱色の唇」を見出し
接吻を交わしたと感じました。
花が若い娘のように頬を染め
裸のオダリスク
(官能的な女性)のように見えた。
彼の中にある記憶、
あるいは秘められた欲望、
そういったイメージが
花を通して映し出されたのです。
花は、彼の内面を映す
「鏡」だったのだと思います。

古くから、絵画は「黙れる詩」であり
詩は「物言う絵画」であると言われます。
タロットカードは、
まさに「黙れる詩」です。
絵は言葉で語りません。
そこに言葉を与え
物語を紡ぐのは、見る人自身です。
同じカードを見ても、
受け取るメッセージが人によって違うのは
カードという鏡に、
その人の内面が映し出されているからです。

言葉もまた、
世界を映し出すためのよすがです。
「陽炎(かげろう)」
という言葉を知らなくても、
揺らめく光を見ることはできます。
けれど、その名前を知った時、
私たちはその揺らめきを味わい
心に留めることができます。
「泡沫(うたかた)」
という響きを知った時、
水面の泡に宿る儚さを味わい
その泡に、
自らの人生をも見るやもしれません。
名前のない感覚は、
ただ流れていってしまいますが
名前があることで
私たちは立ち止まり、味わい
誰かと分かち合うことができるのです。

私は特に、
日本語の美しさ、豊かさに驚かされます。
日本語では、
「夜明け」を描写する言葉は、
つとめて
東雲
朝まだき
暁光
あけぼの
曙光
晨光
暁紅
初明かり
白白明け
時明かり
旭光
黎明
などがあり、
「夕暮れ」を描写する言葉は、
残紅
夕映え
紅霞
残陽
落日
日没
落照
落陽
夕景
夕明かり
夕影
斜陽
などがあります。
ひとつひとつの言葉には、
景色の描写、光の微妙なニュアンス
その瞬間の、
人々の想いや季節が込められています。
かつての人々は、
このように繊細な日常の中にある
玉響(たまゆら)の美しさを捉え、
それに名前を与えてくれました。
名前は、流れる世界の
ほんのわずかな瞬間の美しさを
心に留め、感じるための
「額縁」に
なってくれているのかもしれません。

夏目漱石が「I love you」を
「月が綺麗ですね」
と訳したという逸話もまた
言葉による心象風景の投影です。
月を美しいと思えるのは、
隣にあなたがいて、
私の心が満たされているから。
「あなたがいるから、世界が美しい」
そんな内側の幸福が、
月に映し出されたのかもしれません。
あるいは、もっと切実な焦がれ。
暗闇の中で輝く月のように、
あなたは美しく、
そして手の届かない崇高な存在である、と。
満たされた心も、焦がれる心も
月という鏡には、
その時の「愛の形」が映っているのです。

月には
「真澄鏡(ますかがみ)」
という異名があります。
真澄鏡
とてもきれいに澄んでいる鏡。
月は、空に浮かぶ、
丸く輝く美しい鏡だと考えられた。
また、人の心を映し、
自分の想いを、好きな人に
そのまま反射して伝えてくれる
鏡のようなものであるとも
信じられていた。
(『光と闇と色のことば辞典』より一部を引用)

月のみならず、
自分の外側にあるものはすべて真澄鏡です。
アートも、花も、愛する人も。
自分の内側が澄んでいれば、
世界は美しく見える。
自分の内側が感謝で満ちていれば、
どんなことにも感謝できる。
しかし、その逆も然り。
だからこそ私は思います。
私たちは、
自分のことを定義する言葉には、
もっと敏感で、慎重であるべきだと。
「夜明け」だけ切り取っても
さまざまな表情があるように
私たちには、
言葉ではきっと言い尽くすことのできない
さまざまな表情があります。
ステレオタイプの常識や
他者との比較によって
よく考えもせずに言葉を使い
自分自身にラベルを貼ってしまうと
途端に不自由になってしまいます。

私は数年前から、
気づくとこんな言葉で
自分を定義することがありました。
「私はこの程度でいい」
「私は母だから」
「私はもう年だから」
「私はこういう性格だから」
これらの言葉を重ねれば重ねるほど
石に絵の具を塗り重ねるように
私は、
本当の私の輪郭が
見えなくなっていきました。
とても不自由な日々でした。

ミケランジェロは、こう言います。
「私は石の中に天使を見た。
そして、天使を自由にするまで彫り続けた」
彼は何も加えませんでした。
余計なものを削ぎ落とすことで、
中に眠っていた本質を解放したのです。
私たちも、
削ぎ落としていいのかもしれません。
年齢も、
役割も、
過去の評価も、
こうあるべきという思い込みも。
言葉の前にある、本当の私
それは、
石の中にいる天使
球根の中にある花
ただ、ここに在る
「I Am」
私が言葉や、
タロットに魅了される理由
それは、
私の目に映る外側の世界を
変えようとするためではありません。
私の中にある真澄鏡を磨き
在り方を整えるため。

チューリップが
光を受けて輝いています。
このカードは、タロットの
「女教皇(The High Priestess)」
描かれているのは、チューリップ。
このカードの解説書には、
心理学者ユングの
こんな言葉が引用されています。
“Until you make
the unconscious conscious,
it will direct your life
and you will call it fate.”
「無意識を意識化しない限り、
無意識があなたの人生を支配し、
あなたはそれを運命と呼ぶだろう」
私たちが自分に貼り付けているラベルは、
多くの場合、無意識の産物です。
それに気づき、
意識的に手放していくこと。
それが、
内なる変容への第一歩なのかもしれません。

このチューリップも、かつては球根でした。
球根の状態は、
ミケランジェロの言う「石」と同じです。
まだ花は咲いていません。
外側から見れば、ただの無骨な塊。
けれど、その中に
「天使」がいると信じられるかどうか。
その中に、光を受けて美しく輝く
「花」を見出せるかどうか。
それは、私たちの中にある「真澄鏡」次第。
「私はもう年だから」
そうやって自分でラベルを貼った瞬間に
私は内なる花を、もう永遠に
見ることができなくなってしまうでしょう。
「ない」と決めつけた瞬間に、
自らの手で摘んでしまうのです。

だから私は、いつまでも、
自分の中に花を見出せる人でありたい。
忙しい現代社会では、
理性や効率ばかりが優先されます。
けれど、カーテンから差し込む
朝の光に見惚れる時間や
芸術(クラシック音楽、
クラシックバレエ、タロットなど)に
心を寄せる時間は、
私の中の「真澄鏡」を磨く
とても大切な時間です。
あなたの大切な時間は、どんな時間ですか?
玉響のひかりに心を寄せて

今回、こちらの本を
参考にさせていただきました。
『光と闇と色のことば辞典』
株式会社エクスナレッジ
山口謠司 (著), 桜井輝子 (色監修), 飯田文香 (絵)

最後までお読みいただき
ありがとうございます。
The Essence of Beautiful Life.
Photography & Words by Saori












