【すべては自分の写し鏡】愛の薫習と魂の己育て Part.2

 

こんにちは。Maria Lily Diaryへようこそ。セラピストの沙織です🍁✨

 

Part.1では、唯識が教える心の三層構造と、なぜ私たちは魂の声を聞けなくなるのかについてお話ししました。

 

Part.1はこちら

 

Part.2では、現実を創り出す仕組みと、魂の光へ還る方法について、お話していきたいと思います。

 

 

世界はこうして創られる

 

では、この心の仕組みが、どのようにして私たちの「現実」を創り出しているのでしょうか。私の実体験をお話しします。

 

【ステップ1】記憶の倉庫に、最初の種子(しゅうじ)が植えられる

 

ここから始まります。

 

小学生の頃に、仲間はずれにされ、無視された経験があります。子供だった私にとっては、とても傷つく体験でした。悲しい感情と共に、「私は嫌われる」という強力な種子が、記憶の倉庫(阿頼耶識)に深く刻まれました。

 

父には、「親の言う通りにすれば間違いない」と言われて育ちました。重要な進路を選択するとき、「私はどうしたいか」は重要視されませんでした。だから、「私の気持ちは重要ではない」「私はいつも間違える」「ありのままでは愛されない」という信念も、強力な種子として刻まれました。

 

これは、父の、大切な娘が選択を誤り、不幸になってほしくないという深い愛情であったことは、今の私ならわかります。でも、いくら大人になって頭で理解をしても、「あの時の私」は時が止まったままなのです。

 

認識できないほど多くの、さまざまな種子は、重なり合って、こねられて、私の中に大きな「恐れの層」を形成します。

 

【ステップ2】時が止まった「あの時の私」が、防衛戦略を立てる

 

その種子から、時が止まったままの「あの時の私」(末那識)が生まれます。

 

「あの時の私」は、種子に刻まれた信念を絶対的な真実として握りしめ、「嫌われないために、どうしたらいいか」「間違えないために、どうしたらいいか」と常に防衛戦略を考えます。そして、その声に無意識に支配されるようになります。

 

【ステップ3】日常の意識が、防衛戦略を実行する

 

この防衛戦略は、曇ったレンズとなって、私が世界を見る目を歪めます。

 

そんなレンズで、自分、他人、世界を見た結果、私はどんな世界を創り上げたかというと…

 

恋愛において:

誰かを好きになっても、「どうせいつか嫌われる」と思い、相手に心を開くことができない。嫌われるのが怖くて、自分から関係を断ち切る。嫌われないように相手の顔色をうかがい、自分の本音は奥の奥に閉じ込めて、相手にとって「都合のいい子」を演じる。

 

自分自身に対して:

「ありのままでは足りない」「もっと役に立たなければ、認めてもらえない」と、自分の足りないところばかりが目につき、過度なダイエットに走り、摂食障害になりました。

 

「仕事で結果を出せなければ、私はここにいる価値がない人間だ」と自分を追い込み、心も体もボロボロになりました。

 

上司に認められていないのではないかとビクビクし、他人の顔色ばかりを伺い、自分の選択が信用できないから、世間的に良いとされている選択をするけれど、心がついてこない。

 

自分より頭が良さそうに見える人の声に振り回され、わかりやすい承認に一喜一憂する。

 

本当に、心が休まる瞬間がなく、自分がどうしたいのか、自分の本音が全くわからなくなってしまいました。

 

これらはすべて、過去の痛みという「恐れ」を再度経験しないための、健気な防衛行動です。

 

しかし、この防衛行動こそが、私をさらに深い苦しみへと導くのです。

 

エゴの声は幻想であることに気づけず

 

エゴの声こそが、この世界の真実なのだと錯覚した結果、

 

私は、魂の羅針盤を完全に見失ってしまいました。

 

【ステップ4】新たな種子が植えられ、パターンが繰り返される

 

そして、こうした行動や体験は、また新たな「やっぱり私は嫌われた」「やっぱり私は間違えた」という種子を記憶の倉庫に植え付けます。

 

種子が発芽し、「あの時の私」がさらに強化され、曇ったレンズがさらに曇り、同じパターンを延々と繰り返す。

 

これが、私たちが同じ苦しみから抜け出せなくなる仕組みなのです。

 

 

「人のせい」ではない、という希望

 

しかし、この心の仕組みを理解すると、希望が見えてきます。

 

私を苦しめていたのは、無視をしてきた同級生でも、不信感を抱かせた恋人でも、自分が正しいと信じて疑わなかった父でもありませんでした。

 

彼らは、私の内側にある信念をただ忠実に映し出す、単なる「鏡」「スクリーン」に過ぎなかったのです。

 

私の鏡には、こんな私が映し出されていました。

 

「私は嫌われる存在だ」と信じ込み、嫌われないようにビクビクしている私。

 

「私の気持ちは重要ではない」と思い込み、自分の本音を押し殺している私。

 

「私はいつも間違える」と恐れ、自分の選択を信じられない私。

 

「ありのままでは愛されない」と焦り、無理をして完璧を演じる私。

  

その本当の原因は何だったのか。

 

それは、過去に植えられた種子が作り出した「あの時の私」の信念でした。

 

そして、その信念を握りしめたまま、私は自分の心に嘘を重ね続けました。

 

本当の気持ちを押し殺し、周りに合わせ、自分を偽り続けた。

 

そうして自分の本音を何度も何度も裏切った結果、私は私自身のことを心底、信じられなくなり、否定し、嫌っていたのです。

 

これこそが、「外側で起こっていることは、すべて自分の内側の写し鏡」という真実です。

 

この気づきは、私に希望を与えてくれました。

 

すべて自分の内側にあるのなら、私の世界を変える力は、100%、私自身の手の中にあるということだからです。

 

もう、自分に嘘をつかなくてもいい。

 

外側の世界を変えるために、もう、頑張らなくてもいい、と。

 

曇ったレンズを磨けば、世界は変わります。

 

一度立ち止まり、静寂に身をおいて、「あの時の私」の声を聴き、癒してあげれば、魂の声が再び聴こえてきます。誰だって、幼い頃には聴いていたのです。 

 

では、どうすれば「あの時の私」と向き合えるのでしょうか。

 

静かな時間を作り、深呼吸をして、心の奥深くにいる「あの時の私」に、優しく問いかけます。

 

なぜ、私は恐れているのだろう。

何が、私をそんなに不安にさせるのか。

それは、本当に今も真実なのだろうか。

「あの時の私」は、何を守ろうとしているのだろう。

 

最初は答えが返ってこないかもしれません。でも、焦らなくて大丈夫です。

 

何度も何度も、優しく問いかけ、ただ寄り添い続けていると、やがて「あの時の私」は心を開き始めます。

 

私自身も、「あの時の私」と向き合う旅を続けてきました。今も旅の途中です。

 

さまざまな恐れが作られたきっかけを思い出し、その時の感情を味わっては、「でも、もう大丈夫だよ」と自分の中で浄化していく。そんな日々でした。

 

その体験については、以前こちらのブログに綴っています。 

 

自分を否定していたことに気づき、優しく向き合い続ける時、「あの時の私」は少しずつ、その存在を緩めていくのです。 

 

魂の「己育て」

 

しかし、恐れや長年のパターンを手放すのは、容易なことではありません。私を「守る」ために必死だった「あの時の私」(エゴ)は、さまざまな抵抗をしてきます。 

 

自分を愛し、

大切にするために。

 

長い時間をかけて自分と向き合い、まるでゼロから自分自身を育て直す、魂の「己育て」のようでした。

 

自分を愛するとは、自分を大切にするとはどういうことか、そう問いかけては、答えを模索する日々を何年も続けてきました。

 

仏教には「薫習(くんじゅう)」という言葉があります。

 

お香の香りが衣に染み付くように、経験が人の心に深く染み込んでいくことを意味します。

 

自分を蔑ろにする経験を繰り返せば、その薫習によってネガティブな種子が強化されます。

 

しかし、逆もまた真実です。

 

何度も何度も、

 

エゴの声に気づき、それは「本当の私ではない」と言い聞かせる。

 

どんな自分も許し、受け入れ、自分に優しい言葉をかけ、自分を愛する行動をとる。

 

意味や価値など考えず、ただ、自分が夢中になれることをやることで、内なる神聖さに気づき、「魂の光」とつながる時間を作る。

 

恐れに基づく薫習ではなく、愛に基づく薫習を繰り返すことで、たとえ一度作られてしまった種子も、書き換えることができるのです。

 

傷ついていたインナーチャイルドを癒し、この仕組みを頭ではなく魂で理解した瞬間、私の世界は本当に変わりました。

 

以前に比べ、外側の出来事に振り回されることが、かなり少なくなりました。

 

頭の中で絶えず流れ続けていた思考は鎮まり、心は穏やかになりました。

 

イライラしたり、落ち込んだりすることも、ほとんどなくなりました。

 

私はありのままでは愛されないという信念が、

私はありのままで愛されるに。

 

私は価値がないという信念が、

私は価値があるに。

 

私は孤独だという信念が、

私は孤独ではないに。

 

私はできないという信念が、

私はできるに。

 

気づいた時には書き換わっており、自分に対するジャッジや否定も、手放すことができました。

 

穏やかな心の安寧は、魂とのつながりを思い出させ、内側の「光」へと私を導いてくれます。

 

人は、内なる光とつながっている時にのみ、他人の中にも光を見出すことができ、また他人を本当の意味で愛することができるのだと思います。

 

そして、これこそが、本当の自分として生きるために必要なプロセスだと思っています。

 

 

内なる光へ還る

 

私がウエディングプランナーをしていた時、お式の直前にご新婦様のお父様がお亡くなりになったことがありました。

 

ですが、お式当日、お父様の魂が「光」となって会場に現れ、ご新婦様を見守っていらっしゃいました。

 

それは、とても温かいで、に溢れていました。

 

披露宴中に、ご新婦様と光の方を見て、「お父様、来てくださいましたね」「ええ」と、ただそれだけ言葉を交わしたことを、昨日のことのように覚えています。

 

このような経験を重ねる中で、私は人の本質は「肉体」でも「思考」でも「感情」でもなく、

 

「光」すなわちであり、なのではないかと本能的に感じるようになりました。

 

子供を出産した時も、誕生したばかりの純粋なその魂は光輝いていました。

 

その光は私を包み込み、私の中にあった恐れを溶かし、私の中にも同じ光があることを思い出させてくれたのです。

 

この世界は本当は、光に溢れた、とても温かい世界なのです。

 

ただ、恐れがそれを覆い隠してしまっていて、忘れてしまっている、気づかない人が多いというだけで。

 

その光に気づき、つながることができれば、孤独になることもなくなり、安寧を手に入れることができます。

 

エステティックで科学的に肉体を見ていても、やはり私は、肉体は魂の器であり、魂こそが主体なのだと感じています。

 

三次元世界に溢れる物質、名誉、権力、承認、肉体を、あの世へ持っていくことはできません。あちらの世界へ持っていけるのは、魂と阿頼耶識に刻まれた記憶(愛も恐れも)だけなのです。

 

 

鏡を叩き続ける人生、自分を磨き続ける人生

 

ここで、冒頭でお話ししたドラマ「夫よ、死んでくれないか」のことを思い出します。

 

AI generated illustration

 

※以下、ドラマのネタバレを含みます

主人公である麻矢には、過去に深いトラウマがあります。大学生の時、ある事件によって、彼女の中に「あの時の私」が生まれました。

 

そして、「あの時の私」が、彼女にずっと囁き続けます。

 

「人に心を開いてはいけない」

「本当の自分を知られてはいけない」

「誰も本当の私を受け入れてくれない」

「私には幸せになる資格がない」

 

このような恐れも、常に抱えていたでしょう。

 

「『成功している私』という仮面が剥がれたら、すべてを失う」

「人に弱みを見せたら、つけ込まれる」

 

「あの時の私」の信念と恐れが、彼女の人生を支配し続けています。

 

そして、この恐れから生まれる防衛行動が、皮肉にも恐れていたことを引き寄せてしまうのです。

 

夫に心を開けず、溝を深めてしまったのも、刑事に対する警戒心から、多くを語らず疑いを生んだのも、防衛行動によるものです。

 

さらに言えば、「なんでこんな目に私が遭わなければいけないのか」と麻矢は言っていましたが、実は麻矢の恐れと信念そのものが、義母や兄のような「他責思考で責める人」、夫の不倫相手のような「人を羨み奪う人」を、人生に引き寄せていたのかもしれません。

 

「私は被害者だ」という信念を持つ麻矢は、同じく「私は被害者だ」という信念を持つ人々を引き寄せ、お互いに利用し合いながら、お互いの信念を強化し合う。

 

これもまた、写し鏡の法則であり、記憶の倉庫に植えられた種子が、「あの時の私」を通して、同じ現実を繰り返し創り出す仕組みなのです。

 

物語の最後、麻矢の前から、自分を脅かす存在がすべていなくなりました。そして彼女はこう呟きます。「なるんだよ幸せに、これから」と。

 

一見、希望に満ちた再出発のように見えますが、私は、幸せになれるとは思えませんでした。

 

なぜなら、麻矢自身は何も変わっていないからです。

 

彼女は、自分の内側にある「恐れ」や、傷ついた「あの時の私」と向き合うことから、最後まで目を背け続けました。

 

心を開くために努力をしようとした矢先の、夫からのひどい仕打ち。麻矢の信念はより強化され、嘘をつき続けることで苦しんでいたのに、さらに嘘を重ねることになったのです。

 

それは、魂から断絶されたまま、ただ鏡に映る景色を叩き割ったに過ぎません。

 

曇ったレンズを磨かない限り、また別の鏡に、同じ苦しみが映し出されるだけです。

 

自分自身が変わらなければ、「あの時の私」もそのまま。また同じパターンが繰り返されるだけ。

 

本当の幸せは、外側を変えることではなく、内なる光とつながることで得られるものなのです。

 

 

魂の声を聴くと決める

 

もし、今あなたが自分の魂を感じられなくなっていたり、ずっと重たい感覚を味わっているのだとしても、どうか忘れないでください。

 

あなたの内には光輝く魂があります。

 

曇ったレンズに覆われて、見えなくなっているだけで、魂はそこにあり、いつもあなたにメッセージを送り続けています。

 

どうか、頭を鎮め、静寂に身を置き、その声を聴いてあげてください。

 

あなたが聞くと決心すれば、魂は雄弁に語りかけてくれるでしょう。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

気温が急に下がってきましたが、風邪をひかれませんよう、心も体も温かくして、素敵な秋をお過ごしくださいね☕️🍂

 

 

P.S.


タロット「女司祭(The High Priestess)」というカードは、私が大好きなカードの一つです。

白と黒の柱、すなわち二元性により成り立つこの三次元世界の中庸に座し、静寂の中で内なる声に耳を傾けるこの女性。

彼女が手にする巻物「TORA」は、ユダヤ教の律法書です。

しかし、彼女はこの巻物を完全には開いていません。

真理とは文字や理屈だけで理解できるものではなく、内なる声や直感を通してのみ会得できることを示唆しているのです。

彼女は伝えます。

頭の声(エゴ)ではなく、魂との繋がり、自分の理屈ではない内なる「感覚」こそを、何より大切にしなさい、と。

足元の三日月は、潜在意識(阿頼耶識や末那識の世界)と彼女が深く繋がっていることを表します。

背後のヴェールの向こうには、隠された真実が待っています。それは、きっと曇ったレンズの向こうにある、真実の光。

ヴェールに描かれた柘榴は、女性性の象徴です。

自身のすべてを受け入れ、慈しみ、育む女性性を持って、内なる声を聴くこと。

これが、女司祭の叡智です。

東洋と西洋、起源は違えど、共通する真理がここにありますね🌘