
こんにちは。Maria Lilyです。
前回のブログでは、私たちの目の前に広がる現実は、自分の心を映し出す「鏡」であること、そして、その鏡に何を映し出すかを決めているのが、自分でも気づいていない「無意識の信念(曇りガラスのレンズ)」であるというお話をさせていただきました。
「もしかしたら、私の見ている世界は、私自身の内側が創り出しているのかもしれない」そう思われた方もいらっしゃるかもしれませんね。
今日の後編では、いよいよその「内なる世界」の核心へと、一歩深く足を踏み入れていきましょう。数えきれないほどの観念や思い込み…その全ての根っこには、一体何があるのでしょうか。
それは、たった一つの、究極の問いに対するあなた自身の「答え」です。
「私は、存在するだけで価値がある(OK)のか」
「それとも、条件付きでなければ価値がない(NG)のか」
(それはつまり、「ありのままの自分には価値がない、ありのままの自分では足りない」と定義している、ということ)
これこそが、あなたの人生という物語の脚本を描き出す、最も根源的な「自己定義(レンズ)」です。

もし、この自己定義が「私はOKだ」であれば、どうでしょう。
たとえ仕事で失敗しても、誰かに批判されても、それは「出来事」や「情報」として冷静に受け止めることができます。一時的に落ち込むことはあっても、また立ち上がり、その経験を次への糧にする力が湧いてくる。
それは、自分の「価値」と、行動の「結果」を、自然と切り分けて考えられているからです。あなたの存在価値そのものは、何があっても1ミリも揺らぎません。時には、耳の痛い苦言さえも、成長のための有難い言葉として、感謝して受け取れるかもしれません。
しかし、もし自己定義が「私はNGだ」であれば、世界は一変します。
同じ失敗や批判が、あなたの存在そのものを否定する「有罪判決」のように重くのしかかり、すぐに諦めたり、逃げ出したくなってしまう。
自分の「価値」と行動の「結果」が、分かちがたく結びついてしまっているからです。常に心の軸が自分以外の「外側の世界」にあるため、他人の些細な言動や評価に過剰に反応し、自分への攻撃のように感じてしまうのです。
「責められている」「認めてもらえない」「嫌われてしまう」…。そんな不安が頭をよぎり、自分で自分を責め続ける。それは、とても辛く厳しい世界での、終わりなき生きづらさです。
では、この最も根源的な「自己定義」は、私たちの人生のどの段階で、どのように形成されてしまうのでしょうか。
魂のデフォルト設定は「I’m OK」
まず、何よりも先にお伝えしたい真実があります。
それは、私たちは皆、例外なく「I’m OK(私は、ただ存在するだけで価値がある)」というデフォルト設定を持って、この世に生まれてきているという真実です。
生まれたばかりの赤ちゃんは、自分の価値を疑ったりしません。お腹が空けば泣き、満たされれば笑い、その存在のすべてで「私はここにいる!愛されるのが当然だ!」と輝いています。それが、魂の本来の姿です。
(※この感覚については、以前の記事『【存在という祝福】曇りガラスの向こう側の真実』でも綴っています)
では、私たちの魂の本来の姿がそうであるなら、一体なぜ、多くの人がその感覚を忘れてしまうのでしょうか。

「自己定義」が書き換わる時 人生の最初の誤解
その原点は、多くの場合、自分と他者を区別し始め、親の反応を通じて世界のルールを学び、自分を定義し始める、2歳から6歳の幼児期にあります。(脳科学的にも、この時期は神経回路がめざましく形成され、思考パターンの土台が固まる大切な時とされています。)
この時期の子どもにとって、親は世界のすべて。安全と生存を保証してくれる、絶対的な「神様」なのです。子どもは、どんな親であっても必死に愛を求め、親からの関心を、生きるために全身で受け取ろうとします。
だからこそ、ここで人生で最初の、そして最も根深い「誤解」が生まれやすくなります。
親に悪気はないのかもしれません。ただ、子どもの「行動」に対して注意をしただけ、ということも多いでしょう。
例えば、ジュースをこぼした時に「本当にダメな子ね!」と人格まで否定してしまったり、イヤイヤ期の「いやだ!」という自己主張を「そんな子は知りません」と突き放してしまったり。
大人の世界では日常的なやり取りでも、子どもの未熟な心は、「行動がNG」なのではなく、「ありのままの自分の”存在”がNGなのだ」と解釈してしまいます。
世界のすべてである「神様(親)」から、NGの烙印を押された。この衝撃は、子どもの心に「ありのままの自分はダメなんだ」という、揺るぎない真実として深く刻まれるのです。
そして、「そのままの私では、愛されない(生きていけない)」「愛されるためには、何か(親が望むこと)をしなければ」と固く信じるようになります。
こうして、魂のデフォルト設定「I’m OK」は、「I’m not OK(条件付きでなければダメ)」へと、書き換えられてしまうのです。
なぜ、このようなすれ違いが起こるのでしょう。それをもう一段深く考えてみると、多くの場合、親自身もまた「I’m not OK」というレンズで自分を見ているという事実に突き当たります。
「こうでなければ自分はダメだ」と親自身が自分を縛っているからこそ、「このままでは、愛する我が子が社会で認められなくなってしまう」という焦りや不安が生まれる。
その愛情が、「我が子の将来のために」という名目で、いつしか厳しい言葉や行動に変わってしまうのです。
しかし、子どもはそんな親の背景や気持ちを汲み取ることなどできません。
子どもにとっては、ただただ、拒絶や否定に感じられ、「自分は愛されていない、もっと頑張らなければ認められない」という悲しい真実として、心に刻まれてしまうのです。
親の不安から生まれた愛情が、結果として子どもに「I’m not OK」の呪いをかけてしまうのだとしたら、本当に悲しいことですよね。
そして、親自身がその呪いにかかっていると自覚できなければ、この連鎖に気づくことさえできないのです。

「鎧」としての信念
一度「私はNGだ」という自己定義がインストールされると、心は生存戦略として、その「NGな自分」を隠し、世間から「OK」をもらうための「鎧」を創り始めます。
これこそが、私たちが「〇〇でなければならない」と信じている、具体的な信念の正体です。
親の期待に応えるための「真面目で優秀という鎧」
見捨てられないための「優しくていい人という鎧」
傷つかないための「強くあるべきという鎧」
この鎧は、一時的に私たちを守ってくれるかもしれませんが、鎧の内側では常に「本当の自分(NGな自分)が見破られたらどうしよう」という不安や恐怖が渦巻いています。
そして、その恐怖をかき消すように、あなたの内側にもう一人のあなたが生まれます。
本当の自分(NGな自分)が見破られないように鎧の番人をするあなた、すなわち「エゴ」です。
エゴの役割は、鎧を脱がせないこと。そして、鎧をより分厚く、より強固にしようと、あなたを絶えず駆り立てます。
「もっと頑張らないと認めてもらえない」
「もっと痩せて美しい自分にならないと愛してもらえない」
「もっと結果を出さなきゃ価値がある人だと思ってもらえない」
「競争に勝たなければ負け犬だと思われてしまう」
「失敗なんてしたら恥ずかしくて生きていけない」と。
誰もが一度は、他者の目を意識し、こんなことを考えた経験があるのではないでしょうか。
これは、「そのままでは価値がない」と思っているあなたの「エゴ」が、あなたに囁いているだけで、決して真実ではありません。
しかしこのような状態は、交感神経が常に優位になり、体が緊張し続ける、とてもストレスの強い状態です。
心も体もすり減って、やがて「もう頑張れない」と魂が叫び始めるのも時間の問題です。
人生のどこかのタイミングで、私たちは必ず自分の中のエゴと対峙する時が来ます。それは、本当の自分と繋がることを、魂が最も求めているからです。
人によっては、鬱や身体的な病気によって、強制的にその時が訪れる人もいるでしょう。私もそうでした。
でも、「もう、頑張らなくてもいいんだよ」と自分に許可しようとしても、エゴは必死に抵抗し、こう囁くかもしれません。
あなたが休息しようとすると…
「休むだって?頑張らないお前に価値なんてないぞ。周りはもっとやっている」
あなたが失敗を恐れずに新たな道に挑戦しようとすると…
「失敗したらどうするんだ。ほら、やっぱりお前はダメだと思われるだけだ」
あなたが誰かに「No」を伝えようとすると…
「断ったら嫌われるに決まってる。あの人に嫌われたら、あなたは多くを失うよ」と。
「エゴ」の正体
あなたを絶えず苦しめ、行動を縛り付けるこのエゴの声。
その憎くも思える声の正体こそ、実は、かつて「ありのままの存在」を否定され、深く傷ついた幼き日のあなた自身なのです。
「もっと優秀でなければ」「もっといい子でいなければ」愛してもらえない。その深い痛みと絶望から自分を守るために、幼いあなたは「鎧」を身につけるしかありませんでした。
だから、その鎧を脱ごうとすることは、傷ついた幼いあなたにとっては、無防備なまま再びあの痛みに晒されることと同じ。
エゴ(傷ついた幼き日のあなた)は、あなたを守りたい一心で、必死に鎧を強化させようと叫び続けているのです。
「頑張らないと、またあの時みたいに、誰にも愛されなくなっちゃうよ!」と。

本当のあなたへ還る旅
では、どうすればこの根深い「I’m not OK」の自己定義を、魂が本来持つ「I’m OK」の設定へと戻せるのでしょうか。
その答えは、外側に何かを付け加えて「OKな自分」になることではありません。
「自分はNGだ」という壮大な誤解を解き、「私は元々OKだった」という真実を思い出す、内なる旅を始めることです。
その旅の鍵は、あなたを苦しめる「エゴの声」の、さらに奥深くに隠されています。
ここで少しだけ、私自身の体験をお話しさせてください。
(※リズ・ブルボーの著書『五つの傷』についての記事でも、私の傷について詳しく触れています)
私もかつて、厳しい父に叱られないための「いい子」という鎧、人に嫌われないための「聞き分けのいい自分」という鎧を、何重にも着込んでいました。
その古い信念の根深さを特に痛感したのは、自分が子育てをするようになってからです。
息子を感情的に叱りそうになった瞬間、はっと、時が止まりました。
私の口から出かかった言葉は、かつて父が私に投げかけた言葉そのもの。私の怒る顔は、あの時の父の怒りに赤く染まった顔そのもの。
そして、目の前でただ黙っている息子の姿に、あのとき無力感で固まっていた『幼い私』の姿が、鮮明に重なったのです。
ぞっとしました。かつて自分がされて嫌だったことを、世界で一番愛する息子にしていたのですから。
幼い私は、私にこう語ります。
「あなたもパパに叱られた時、嫌だったよね。悲しかったよね。辛かったよね。ずっと孤独だったよね。」って。
「…うん、そうだね。ごめんね…本当に、ごめんね…」
私は息子を強く抱きしめ、息子に謝りながら、『幼い私』をも抱きしめ、謝り続けました。
「大丈夫だよ。そのままのあなたで、いいんだよ」と、何度も何度も。

思えばその時から、息子と、のちに誕生した娘は、何度も何度も幼い日の私自身を映し出す鏡となり、私にメッセージを送り続けてくれたのです。
その都度、私は、幼い私との対話を通じて、無意識に押し込めていた悲しみや、傷、孤独感を思い出しては慰め、本当の気持ちに気づき、受け入れ、自らを癒やしていくプロセスを繰り返しました。
まるで、魂の闇夜のような日々でした。そして、私のレンズは透明度を取り戻すのです。
今はもう、子供たちと幼い私が重なることはありません。何かに重ねなくても、私の一部として統合しているからだと思います。
もちろん、まだまだレンズが曇っているところはあると思います。まだまだ私も旅の途中です。
私が体験した、幼い自分との対話。 これこそが、傷ついた自分を癒し、自己定義を書き換えるための鍵となる「シャドーワーク」です。(シャドーワークとは、自分の無意識に押し込めた感情や記憶と向き合い、統合していく作業のことです。)
日常のふとした瞬間に顔を出すエゴの声は、「もう一人のあなた」からのサインであり、「ここにいるよ、気づいてほしいよ」と叫ぶ、癒されたがっている「内なる子供」からの、切実なメッセージなのです。
その声に気づき、寄り添い、「大丈夫だよ」とその子の価値を伝え続ける。その対話こそが、根深い自己定義の呪いを解き、魂を本来の場所『愛』へと還していく唯一の道。
そうして、あなたの内側で続いてきた「エゴ(傷ついた自分)」との長きにわたる戦いは、静かに終わりを告げるのです。
エゴは消え去るのではなく、鎧の番人という役割を終え、本来の姿である純粋な子供のエネルギーへと還っていきます。
心の中には深い静けさと安心感が訪れ、あなたがあなた自身の「全体性」を取り戻し、魂が本来持つ輝きの中心「本当の自分」へと還っていくでしょう。
「おかえり、本当の私。長い長い旅路だったね。」

実は、この「自分を統合していく旅」は、何千年も前から古今東西の叡智が示してきた、普遍的な心の地図でもあります。古代の叡智であるカバラの「生命の木」や、タロットも、まさにその地図の一つなのです。
私たちの意識、過去の記憶を蓄えた潜在意識、そして魂そのものの視点である超意識、これら全てが調和した時、私たちは本当の自分に出会えるのだと、地図は示しています。
そして私自身は、この深遠な魂の旅路において、私たちの魂が宿る、最も身近な「身体」という器を慈しむことが、何よりの土台になると感じています。
私はセラピストとして、科学に基づく視点で「体」「肌」「心」と向き合いますが、一方で、スピリチュアルな領域である「魂」や「潜在意識」が、それらと分かち難く響き合っていることも確信しています。
この両者の調和と統合の先にこそ、真の美しさと健やかさがあると信じ、日々、探究を続けているのです。
最後に
この内なる旅は、一朝一夕で終わるものではありません。何度も繰り返す、根気のいるプロセスです。時には、古いレンズが曇り、世界が厳しく見える日もあるでしょう。
でも、もうあなたは知っています。
世界は鏡であり、あなたの内側には、その世界をいつでも変えることができる力があるということを。
焦らず、ご自身のペースで、この内なる旅を楽しんでみてください。
あなたが真のあなたと繋がり、より素晴らしい「今」、そして「未来」を創造されますことを、心から応援しています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました♡
