【世界とは鏡である】無意識の信念が創り出す世界[1]

 

 

こんにちは。Maria Lilyです。紫陽花が美しい彩りを見せてくれる今日この頃。

 

皆様いかがお過ごしでしょうか。

 

今日は、多くの方が心のどこかで感じたことのあるかもしれない、ある不思議な感覚について、お話ししたいと思います。

 

それがどんなものかというと、

「なぜかいつも、同じようなパターンを繰り返している。」

という感覚。

 

例えば、恋愛ではいつも好きになってはいけない人を好きになってしまう・・・

 

相手が変わっても、気づくといつも同じような関係性に行きついている・・・

 

今度こそはと思って勤めた会社を、また一ヶ月で辞めたくなった・・・

 

もう買わないと決めたのに、欲しいものがあると我慢できない・・・

 

頑張っているのに、望む現実がなかなか手に入れられない・・・

 

このような感覚を、感じたことはありませんか?

 

私も以前、まさにこのような感覚を感じ続けていました。

 

人間関係では、大切に思っていたはずなのに、いつも同じようなすれ違いを繰り返す。嫌われるのが怖くて、気づけばそっと距離を置く。

 

心を込めて誰かのために力を尽くしても、「自分なんかが」というブレーキがかかり、豊かさの流れを自ら止めてしまう。

 

そうした出来事が起こるたび、私は「ああ、またこのパターンだ」と客観的に気づくことさえできず、ただただ自分を責めていました。

 

「やっぱり、私がいけないんだ」

 

「私にはまだ、何かが足りていない。だから必要とされないんだ」

 

「もっと頑張らなければ、認めてもらえないんだ」と。

 

もしあなたが今、過去の私と同じように、望んで手に入れたわけではない現実に苛まれ、生きづらさや、自分を責めてしまうループの中にいると感じているのなら、

 

それはあなたの「内なる世界」が、「外側の現実という鏡」に映し出されている、大切なサインなのかもしれません。

 

 

世界は、自分の心を映し出す「鏡」

 

私たちの目の前に広がる現実は、ただの偶然の連続ではありません。

 

それは、私たちの内面、特に、自分では気づいていない「無意識の領域」が、そっくりそのまま投影された鏡のようなものなのです。

 

心がいつも、愛と感謝に満たされ、穏やかで、自分や自分の人生そのものを信頼できている時には、周りの世界も信頼し、応援してくれているように、愛してくれているように感じられることを、私は知っています。

 

しかし逆に、心に不安や自己否定、自己欺瞞の気持ちがあると、世界は厳しく、周りの人々を信頼することなど難しい、とても障害の多い場所に見えてしまうでしょう。

 

では、「無意識の領域」とは一体何なのか。

 

人生を輝くものにも、曇ったものにもさせてしまう「鏡の法則」の鍵を握っているのが、私たちが「無意識の領域において、信じ込んでいる信念(思い込み)」の存在です。

 

見つけることさえ難しい「無意識の信念」とは?

 

「無意識の信念」とは、多くの場合、私たちが子供の頃の経験を通じて、自分や世界について信じ込むようになった、根深い観念や思い込みのことです。

 

これらは、いわゆる「潜在意識」というところにすべて刻まれています。この潜在意識は、一切の判断・評価をすることなく記録していますので、あなたにとっては一見マイナスに働くようなことであっても、すべて克明に記録されています。

 

それはあまりにも当たり前に、深く自分の中に存在しているため、普段はそれが「一つの信念」であることにさえ気づくことはできません。

 

まるで、生まれた時からかけている眼鏡のように、私たちはそのレンズを通して世界を見ているのです。そして私たちは、そのレンズを通して見た世界を、唯一の「真実」だと信じ込んでしまいます。

 

 

例えば、「私が我慢すれば丸く収まる」「常に正しく、優秀でなければならない」といった信念を無意識に握りしめていると、どうなるでしょうか。

 

そのレンズは、目の前の出来事や相手を、常に「自分と比べて上か下か」「どちらが正しくて、どちらが間違っているか」という物差しで測らせます。 

 

そして、もしその世界が自分の望むものではなく、相手が自分を苦しめているように感じた時、私たちは劣等感に苛まれ、自分自身を「被害者」や「犠牲者」と結論づけてしまうのです。

 

しかし本当は、あなたを「被害者」という立場にたらしめているのは、他人や世界ではありません。

 

それは、「自分は誰かよりも下である」と判断し、そして何より、「この現実を変える力は、自分にはない」と信じ込んでしまっている、あなた自身のその「レンズ」なのです。

 

なぜなら、そのレンズは、あなたに「変化しないこと」を許してくれるからです。

 

「自分には力がないのだから、変われないのは仕方がない」と、自分を「変える」という、最もエネルギーを必要とする責任から、巧みに逃してくれます。

 

そして、誰かや何かを批判しながら「可哀想な被害者」でいる方が、短期的にはずっと楽で、居心地が良いと感じられてしまうのです。

 

曇ったレンズは、あなたにとって望ましくはないけれど、あなたの潜在意識にとっては「楽で居心地の良い」現実を、創り出し続けているに過ぎないのです。

 

この根深い信念を見つけ、書き換えるのがなぜ難しいのか。 

 

それは、私たちがこのような現実に直面した時に、自分のレンズを磨くのではなく、まず鏡に映った「外側の出来事」や「他人」の方を変えようとしてしまうからです。

 

「あの人が悪いのよ」

「あの人が、もっと優しくなってさえくれれば」

 

「この会社は、本当に最低だ」 

「あの上司は、私のことを全く分かってくれない」

 

「今の社会が、この国の政治が、全部悪いんだ」

 

こうして、自分の外側にあるすべてを「敵」と見なし、批判の声を上げ、自分は「被害者」であると主張し続ける。

 

時には陰謀論や過激な思想に傾倒し、「自分は悪くない、悪いのは他人であり、世界なのだ」という論理で、傷ついた自分を守ろうとするのです。

 

この「自分は被害者である」という心の姿勢は、特に近年のSNSの世界で顕著に見られる光景です。その声の内側には、きっと、計り知れない生きづらさがあるのだろうと思います。

 

特に、これから自分の望む人生をいくらでも創造していける時間とエネルギーを持つ若い方々が、この思考の罠に囚われてしまうのは、本当に残念でなりません。

 

彼らの足を引っ張る、あまりにも多くの情報や、心ない大人の存在が、現代には多すぎるのかもしれません。

 

 

自分のコントロールが及ばない「他人」や「世界」に対して、怒り、悲しみ、恐れを抱き続ける。

 

その一人劇場をSNSで繰り広げ、同じ意見を持つ人々と繋がることで「自分は正しい」という承認を求め、結果として、その曇ったレンズをさらに厚くしてしまうのです。

 

しかし、その道が幸せとは真逆の方向へ向かっていることを、私は断言できます。

 

本当に見つめるべきは、外側の世界ではありません。その出来事に反応している自分自身の「内なる信念」、すなわち、あなた自身がかけている「レンズ」の存在に気づくこと。

 

すべての始まりは、まず、その一点にあります。

 

 

少し、厳しいお話になってしまったかもしれませんが、これは誰かを批判するためのお話では決してありません。私自身も、長い間このループの中で、自分を、そして他者や世界を責めてきましたから。

 

大切なのは、まず「もしかしたら、私の見ている世界は、私自身の内側が創り出しているのかもしれない」と、その可能性に静かに気づくことです。

 

Part.2では、「自分の信念を書き換える、内なる旅」について、お話したいと思います。最後までお読みいただき、ありがとうございました♡

 

【最後に、誤解を生みませんように・・・】

この記事でお伝えした「被害者という心の姿勢」で他人を批判することと、実際に人権侵害などの被害を受け、勇気を出して声を上げる「正当な告発」とは、全く別のものです。正当な告発は、未来をより良くするための、勇気ある建設的な行動です。おそらく多くの方は、文脈から読み取っていただけると信じておりますが、万が一誤解がありますといけませんので、追伸とさせていただきます。