昨日、レビューを投稿した「悪人」という小説・映画の中で、
なぜ、祐一は出会ったばかりの光代を愛し、光代は殺人犯である祐一を愛したのか。
ということを、疑問に思う人が多いのではないかと思います。
なぜ、あの二人は、理性を失うほどに求めあったのか・・・と考えたときに、人間の「皮膚」の仕組み上、そうなっても仕方がないのかも、と思ってしまいました。
ですので、今日はそんなことを書きたいと思います。
今日のサブタイトルは : 「なぜ人は、人と肌を重ねることで心が癒されるのか。」です。
人間とは、体温が下がることに対し、無意識的にも意識的にも、とても不安を感じる生き物です。
人は体温を維持しなければ生きていけないからこそ、それは生存本能なのです。
体温には、「皮膚温」と「深部体温」の二種類があるのですが、皮膚温と深部体温のバランスを保つ為に、体は常に深部で代謝をすることで熱を生み出し、皮膚から熱を逃がしています。
そうやって皮膚温と深部体温のバランスを保つことが、生存においても生殖においてもとても重要なことで
たとえば、代謝については、体温が1度下がるだけで基礎代謝は12%、体内酵素の働きは5%も低下すると言われます。
体温の低下は、生存確率、代謝や免疫力、生殖能力の低下に繋がります。ですから、古代から「体温を維持する」というのは人間にとって、とても大切なことなのです。
そのような身体の構造から生まれた習性が、「スキンシップ」です。
スキンシップの原初的な意味は、生まれたばかりの赤ちゃんの体温が低下しない為に、母親が触れ、抱きしめることによって保温をするというものでした。
ですから人間にとって、生命を維持する為にスキンシップは絶対に欠かせないものなのです。
そして、はじめは体温維持の為のスキンシップであったとしても、何度も温かい胸に抱かれることによって、その子供は次第に、抱いてくれる人に対し安心感を抱くようになります。
さらに、それを繰り返し経験した結果として、
スキンシップは、不安や恐怖、ストレスや不快な感情から私を守り、安心感を与えてくれる、心を癒してくれる行為であるという「快」の情動へと繋がっていきます。
だからこそ、いつも触れて、抱きしめて、私を安心させてくれる人、心を癒してくれる人に対しては、特別な感情を抱くようになり、愛情や信頼が芽生え、絆が生まれていくという認知の過程へと発展していくのです。
触れること、抱きしめること、そういったスキンシップは、生命の維持にとって必要なことであり、安心感を得ることで心を癒し、愛情と信頼を育み、人と人との間に絆を生み出す素晴らしい行為なのです。
ですから、人がそれを求めるのは当然であり、人には人の温もりが、水や空気や食べ物と同様に、必要不可欠なのだと思います。
寒い時期には特に、体温が下がりやすいことから、人は孤独を感じやすくなります。
実際に、皮膚に温かい刺激を与えることで、脳幹のセロトニン神経が活発になることが分かっており、皮膚温と深部体温が鬱症状と深く関わっていることが様々な実験によりわかっています。
「悪人」について思ったことは、
祐一には「悪意」があったのではなくて、
孤独な心を埋める為に、触れられること、安心感や癒し、誰かとの結びつきを強く求めていたのではないかと、
ただ、それだけだったのではないかと・・・
祐一と光代が灯台で寒さに震えなから寄り添っていた日々は、お互いにとって、お互いの温もりや存在を感じられる、心癒される貴重な体験であったのだと思います。
そして、あの状況であれば、相手が自分にとっての唯一無二の相手であり、それが「愛」であると錯覚してしまうのも仕方がないのかも・・・と思いました。
ただ、肌を重ねることによって、二人の心が癒され、自分自身の存在をより強く感じられたことは確か。
柄本明さん演じる佳乃の父親が、娘が殺害された現場に行き、そこで亡霊となって現れた佳乃(満島ひかりさん)に出会います。
その時に、佳乃の頭を、まるで子供にするように、大きな手で撫でるシーンがあるのですが・・・
家族の愛情を、父の手の温もりから感じ、自分は孤独ではなかった、愛されていたのだと、佳乃は気づいたのかもしれません。
生きているうちに、本当は、それに気づけなければならないのに。
スキンシップが重要視される理由に、体温低下を防ぐこと以外に、「皮膚感覚によって、感情が生み出されるから」というものがあります。
「皮膚」というのは、外部環境の変化により、深部体温が変化するのを防ぐ最後の砦であり、
また触覚の受容器として脳と直結し、感覚や感情を生み出し、他人と自分とを分ける「境界線」を認知する役割を担っています。
英語では、皮膚を「skin」といいますが、日本語では「肌」と「皮膚」に分けられます。
「皮膚」といえば人体を覆う膜というイメージをしますが、「肌」といえばどうでしょうか?
「肌触りが良い」とは言いますが、「皮膚触りが良い」とは言いませんよね。
それ以外にも、「肌が合わない」「肌で感じる」「ひと肌脱ぐ」「職人肌」というように、あたかも「肌」とは何か特別な器官であるかのような言葉が、日本語にはたくさんあります。
古来から「肌とは、心を持つものである」という認識が、日本にはあったのです。
実際に皮膚には、様々な触覚の受容器があり、様々な感覚や刺激を脳に伝え、それにより快や不快の感情が生み出され、自律神経もそれに影響を受けますから、皮膚が感情を生み出していると言っても過言ではありません。
そう考えると、日本は海外にくらべ、家族や友人間のスキンシップ(ハグやキスなど)が大人になるとほとんどなく、スキンシップが少ない国だと思います。(コロナの出現によって、それはより顕著になりました)
ですから、日本人の多くは、人との関係性において、「心(境界線としての皮膚)」を閉ざしやすいと考えられているそうです。
そして心の中に孤独感を抱きやすく、自尊心が低くなりがちで、それも原因となり自殺をしてしまう人や鬱病を患う人が多いのかもしれません。(海外の方のお話を伺うと、日本の自殺率の高さは宗教的なストッパーがないことも関係しているのではないかと思いました)
人は、合理的な機器によって癒されることはなく、不合理なものにしか癒されることはないそうです。
便利な機械に囲まれて、どれだけ生活が豊かに、効率的になろうとも、
SNSが発達し、スマホやPCの中で多くの人と繋がろうとも、
それで人の心が、本質的に癒されることは、決してないのだと思います。
心が満たされないから、なんとか自分の存在価値を証明したくて、承認欲求を満たしたくて、毎日SNSでリア充をアピールし、いいねをたくさんもらえたとしても、
おそらく、心が満たされるより、孤独感がより強くなってしまうのではないかと・・・
お互いに目を見て、対話・承認をしたり、肌を重ねて、お互いの温もりや鼓動を感じ合うこと。
大切な人とは、お互いに、「皮膚」と「心」を開いて、「温もり」を感じ合うことによって、絆を深め合える時間をもつこと。
人間が、本能的に求めているものはそういう機会であり、
自分や大切な人が元気なうちに、そういう時間を何よりも優先して生きることが、
愛を育み、信頼を深め、幸せな人生を創っていく為に必要なことなのではないかと、そんなことを思いました。
コロナ禍において、そういう機会が奪われてしまいましたが、今後はそれができるようになりそうですね^^
日に日に寒さが増していきますが、心はホカホカでいられますように💗
それでは、今日もお読みいただきありがとうございました。
MARIA LILY
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