愛するということ/エーリッヒ・フロム【愛の考察I】

 

先日、つかの間の休息に読んだ本が、本当に素晴らしく・・・かじりつくように、夢中で読みました。

 

  

「愛するということ」 エーリッヒ・フロム

 

有名な本なので、読まれた方も多いと思います。

 

どんなご感想を抱かれたでしょうか・・・

 

私は多くの結婚式に立ち会う中で、数多くの、愛の形を見届けてまいりました。 

 

100人いれば、100通りの愛し方があり

 

どんなに不器用な愛し方であれ、そこに確かな「愛」が在るのなら 

 

それはいつか、ちゃんと相手に伝わるものなのだと、多くの親子、新郎新婦から学ばせて頂きました。

 

そして今、私には愛する人がいます。正直、人生において、あまり多くは望んでいなくて

 

ただ、その愛する人たちが健康で、毎日心からの笑顔でいてくれたら、それで十分かなと思っています。

 

仕事でも、特に大きな野望があるわけではなく、目の前のたった一人の、大切な人の願いを叶えたい。心から感動を与えられる人で在りたいと思っています。

  

たった一人の願いさえも叶えられないのなら、地位も名誉も、私には意味がありません。

 

ですから、知識や技術を磨くのは最低限必要なことですし、

 

私は、私を大切にする為に。私の心が最も喜ぶこと、大好きなことを、仕事に選びました。

 

私は、自分も含めた、すべての愛する人たちの「心からの笑顔」を見る為にこの世に存在しています。

 

それなのに、なぜか・・・

 

時に、深い霧がかかったかのように、その愛を見失ってしまうことがあります。

 

愛する人を傷つけて、

 

自分のことも傷つけて、

 

胸を痛め、自己嫌悪に陥っては、後悔の念に苛まれ、反省を繰り返す日々。

 

お金と違い、見て触れて、計ることができない愛は、自分が誠実な心で向き合おうとしなければ、その姿を捉えることは永遠にできないのかもしれません。

 

愛するということは、とても難しいことだと思います。

 

今日は、そんな「愛」についてフロムの言葉と共に考察を深めていきたいと思います。

 

長くなりますので、お暇な時にお付き合い頂けましたら幸いです。

 

 

愛する人を失いそうになったとき、愛する人を失ってしまったとき、人は胸の痛みや喪失感と共に、相手へ抱く愛の存在を強く認識します。

 

ですが、人は忘れっぽい生き物で、まるで空気のように当たり前にその存在がある時には

 

愛への認識、感謝は薄れ

 

それどころか、愛に対し傲慢になり、相手に何かを求めては、思い通りにならなければ腹を立て嫉妬をしたり、束縛をしたり・・・

 

子育てに於いても、恋愛に於いても

 

人を愛するということは、まるで至難の如く、世界中の人が愛の失敗を繰り返し、苦しみ、悩み

 

それでも愛に飢え、求め続けるのはなぜなのでしょうか・・・

 

 

愛の理論の一つとして、人間は「孤独」に対する恐怖心を、強く持っている生き物であり、

 

孤独感や、孤立感をなくす為に、他人との「一体化」を求めるのだと、フロムは言います。

 

他人と一体化し、孤独を克服する唯一の方法は、人と「愛」によって結ばれることです。

 

だから、生きとし生けるもの本能的に、人と愛し合うことを求めているのです。

 

ではどうしたら、愛で人と結ばれ、永遠に一体化することができるのでしょうか。

 

フロムはこう言います。

 

愛とは愛を生む力であり愛せないということは愛を生むことはできないということである。

『愛するということ』第2章 愛の理論より

 

ドイツの経済学者・哲学者のマルクスは、こうも表現しています。

 

愛は愛とだけ、信頼は信頼とだけしか交換できない。

『経済学・哲学草稿』より

 

「誰かに愛されたい」

 

そう願うのであればまずは自分が「愛」の真の意味を知り人を愛せるようにならなければなりません。

 

貴方にとって、「愛するということ」には、どんな意味があるでしょうか?

 

自分なりの「愛」を定義し信念、指針とする必要があるように、私は思います。

 

 

フロムはこう言います。

 

愛は技術である。

 

「人を愛する」ということは、突然、”恋に落ちる”というような、偶発的でコントロール不可能な、不確かなものではなく、

 

習練により培い、己が成熟することによって生み出し得続けることができる確かなものだと。

 

愛の技術を習得する為には、医術や、芸術を習得するのと同様にその理論を学び、そして、その技術を習練によって、体得することが必要なのだと。

 

愛に失敗をした時は、その失恋の傷を癒し、虚無感を埋める為に別の人を求めるのではなく、なぜ失敗をしたのかと己を省み、原因追求・改善策を十分に検討した上で、同じ過ちを繰り返さないよう精進すべきだと。

 

仕事やスポーツ、学問に於いては多くの人が、それを理解し実践していますが、こと「恋愛」になると、なぜか多くの人は、理性や客観性を失い、過ちを繰り返してしまいます。

 

その理由には、時代や文化が、色濃く影響しているようです。

 

 

結婚相手を、自分で自由に選ぶことができなかった時代の人たちは、結婚をしてから相手のことを知り、人生をかけて愛する努力をし続けたのでしょうか。

 

ですが現代では、恋愛も結婚も、相手を自由に選ぶことができるようになりました。それによって、人々の愛へのスタンスは大きく変わります。

 

愛に失敗をした時に、失敗の原因を、自分自身の愛の理論的知識が未習熟であった愛する技量不足であったからだと、

 

「自分の能力の問題」と捉える人は少なくなり、

 

「対象の問題」と捉える人が多くなったのです。

 

すなわち自由恋愛の世界では、自分や相手を婚活の市場価値に当てはめて品定めをするように、相手が自分にふさわしいかどうか、自分が相手にふさしいかどうかを判断し、双方の交換価値が合致したところで恋愛関係が始まるようになります。

 

そうなると「愛する能力」よりも「いかに相手に選ばれるか」「いかに相手に愛されるか」の方が重要になることは必至です。

 

だから現代人の多くは、自分の市場価値を高めることに日々ほとんどのエネルギーを使い果たし

 

愛について学んだり、愛の技術を磨くところには意識が及ばないのだそうです。

 

 

ある人は、社会的地位を高め、収入を上げようと努力しますし、またある人は、料理の腕を磨いたり、ダイエットやスキンケアに励みます。

 

それは素晴らしい努力ですが・・・

 

外側にばかりに意識を向け、愛する力よりもお金や地位や権力や外見の美しさばかりを求めていては、同じ失敗を繰り返すことは明白です。

 

失恋し、傷つけば傷つくほど自己信頼は下がり、恋愛を心から楽しむことが難しくなります。

 

次第に、他人軸、世間や他人の価値観や評価に沿った生き方を選択するようになり、自分を愛すること、大切にすることさえもできなくなってしまうかもしれません。

 

自分を愛することができない人は他人を愛することもできませんから

 

その沼から、抜け出さなければ・・・

 

いつまで経っても、本当の意味で人を愛することはできないということです。

 

 

結婚生活は、本当に、修行の連続です。

 

愛が本来、コントロール不可能な感情ではなく、自分の意志に基づいた行為、決断であるならば

 

生涯をかけて、習得していくものならば

 

永遠の愛を誓い、ひとたび結婚をした二人は離婚をすべきではないということになります。

 

確かに、「ダメだったら離婚をすればいい」と安易に結婚を考え、相手に愛されること、経済的な支援は求めるものの

 

自分は愛し与える努力を怠り、問題が起きたらすぐに投げ出すのでは、何度相手を変え結婚をしようとも、内面の成熟はおろか、そこに愛を生み出すことはきっと難しいでしょう。

 

現代の離婚率の高さは、「愛の技術の未熟さ」を如実に現した「結果」と言えるのかもしれません。

 

ですが、価値観が多様化する現代に、様々な矛盾を内包する愛です。

 

様々な国で、法律や厳しい宗教の戒律から逃れ、結婚を選択しない人が増えていますし、日本でも容易に離婚が許されなかった時代は、とても苦しい思いをされた方々がたくさんいらっしゃったと思います。

 

ですから、一概に離婚が悪いとは言えませんし、結婚だけが幸せな生き方とも全く思いません。離婚が正当化されることもあって然るべきです。

 

とはいえ、相手に対する思いやりを持って過ごすことが本当に大切だなぁと感じる今日この頃。私も夫に三行半を突きつけられないよう努力をしなければ・・・と、自戒の念を込めて。

 

本質的な幸せ

心の平安を得続ける為に必要なことは

 

生涯を通じて、愛を学び

愛の起点人となれるよう努めること。

 

では、その為に必要な「学び」とは何なのか。

 

IIにて、更に考えていきたいと思います。